平成8年2月20日、日本自転車会館3号館において標記懇談会を開催した。その中で三菱化学生命科学研究所、米本社会生命科学研究室長にご講演いただいたので、その概要をこの紙面
にて報告する。
本日お話しする内容はこういうことです。今までかなり長い間、中国から日本に酸性雨の原因物質が飛来する状況に対して日本国内では、中国に技術、資金、人材を投入して酸性雨対策に当てればいいのではないかという議論がなされてきました。しかも、それが近未来にあたかも実現するように受けとめられています。この問題について、過去に似た問題に直面
したヨーロッパの酸性雨の外交の歴史を調べ、現時点の東アジアの状況と比較してみますと、酸性雨の問題で外交のための基盤が成立するためには、実は相当たくさんの障害があることがわかってきました。この点について若干説明してみたいと思います。
現在地球規模の問題として認識されるようになった地球温暖化についても、ヨーロッパの政策担当者は、80年代ヨーロッパで進んだ酸性雨外交の体験を前提に議論しますので、温暖化の話しから始めたいと思います。
その特徴は、自然科学と国際政治が融合してしまったことです。温暖化問題で見ますと、普通
、科学者はサイエンティフィックレビューということを行います。これは科学研究の内部的な関心でまとめますので、問題の設定や研究の力点の置き方は、具体的政策とはかけ離れた所にあります。ところが、1985年からサイエンティフィックアセスメントということを始めます。実際には、オーストリアのフィラッハというところで、80名程の科学者が集まって、大気中のCO2の濃度増大により影響予測をやりました。その後、議論がどんどん膨らんでいき、1988年を起点として、科学者だけの議論ではなく、政治家、行政官あるいは産業界やNGOの人達も含めた政治の問題となります。
本格的に政治の問題になったのが1988年暮れの国連総会で、この場でIPCCという温暖化予測のアセスメントの作業を国連の業務としてやることが決まっています。そしてたちどころに、1992年国連気候変動枠組み条約という非常に大きな条約が出来てしまいます。この間、最初のフィラッハから7年、国際政治の主題になってたった4年です。更に言えば、1990年に、IPCCの最初の報告で条約交渉に入るべしと勧告してから僅か1年半で、温暖化の対策を世界じゅうがとるべきだという大がかりな国際条約ができてしまったわけです。
例えば、ガットの交渉も、核削減交渉も、具体的合意に達するまで10年、20年という時間がかかりました。それが温暖化条約の場合、あっという間に成立してしまった。この背景を考えますと、この時点で温暖化に特別
な科学的データが出たわけではありませんから、他の国際政治上の理由があったことになります。それはもちろん冷戦の終焉です。東西冷戦の解体過程と地球環境問題が国際政治の大きな交渉対象になるということがトレードオフの関係になっているようにみえます。この問題の特徴は、地球科学が出してくるデータの解析が、そのまま国際交渉のフレームワークを形成してしまうという事です。
その後この問題がどうなっているかと言うと、1988年の秋から1992年6月の地球サミットの段階までが一つの区切りで、これが終わった後、各国の首脳は民族紛争と失業問題に悩殺されてしまい、地球サミットで合意された地球環境問題への対策の国内での優先順位
は高くなく、ほとんど無視されているという状況にあります。
この問題の領域で1992年夏以降何が起こったかというと、それ以前から始まった国境を越えた地球環境を対象にした、国際環境保全機構が改めて見直されることになります。特にヨーロッパでは、この地域全体の問題として、大気問題、河川の問題、あるいは閉鎖海域の海洋汚染の問題に対する国際機構が発達しています。その理由は二つあります。
一つは国際政治の主流である安全保障問題の副産物として構築されました。安全保障問題が行き詰まると、そのバッファーとして環境問題でバランスを取るということが行われました。ヨーロッパの長距離越境大気汚染条約(酸性雨対策としてSOxとNOをヨーロッパ全域で削減する国際条約)も、そのきっかけは、1975年の全欧安保協力会議です。ここで東西陣営が話し合ってヘルシンキ合意に達したのですが、安全保障以外の問題も取り組むことになり、環境問題も取り上げられました。そこで、この問題を扱うのは国連ヨーロッパ委員会が妥当と考えられ、ここに業務が付託されて、交渉が始まり1979年に妥結、署名に至りました。
もう一つの要素は通商問題からです。そもそもEUの始まりは、経済的な動機でヨーロッパの市場を一元化しようとしたわけですが、そのためには関税だけではなく、保険とか労働条件なども統一されないといけない。その中に環境規制も当然含まれました。結局、通
商を一元化するためには、企業行動の条件も一元化されていないといけないという事になり、市場統一が各国の利害調整で停滞したときなどは、むしろ環境合意でECの実績を積むという様相が80年代に出てきます。これがECの環境指令という形をとり、長距離越境大気汚染条約の進展を側面
から強力に支えることになります。
この二つの理由で、冷戦時代の国際的環境保全機構は、実質的に動きだしたと言えます。しかし、ポスト冷戦時代になると趣が変わってきます。それはアメリカやヨーロッパの対外援助を見ると分かりますが、援助削減に向かっています。冷戦時代には、余り窮乏状態に放置しておくと革命が起こりかねないという理屈で、援助を正当化してきました。しかし、冷戦後はその根拠が無くなってしまい、むしろ地球全体の立場から、例えば森林や河川を守るといった視点で、貧困を放置しておくと環境も破壊されるという議論に変わってきました。こうして、環境協力が南北間の議論の中心として浮上してきたのです。その結果
、環境保全にはお金を貸しましょうという、善意ではあるが北側の価値観の押しつけと、お金を貸してくれるのであれば、もう一つ発電所を作りたいという南側の国家戦略、経済開発の主権がぶつかるという状況が出てきています。
今まで地球科学が、国際環境保全条約にどの程度連動してきているかという観点から、ヨーロッパにおける酸性雨問題の流れを見てみましょう。問題の提示は1960年代に始まりました。1972年に国連人間環境会議がストックホルムで開催され、主催国であるスウェーデンが、酸性雨が特にイギリスと旧西ドイツの工業地帯から飛んできて実際被害を引き起こしている、スカンジナビア半島の河川が酸性化して、水産資源が激減していると言い出します。しかしこの時は、主要国首脳はこの問題に対して非常に冷淡で、黙殺されます。ただ、OECDの内部で国際的な研究が始まります。
この研究はEMEP(European Monitoring Evaluation Program)と呼ばれる研究システムに発展します。ヨーロッパ全域に同一規格の観測システムを置いて、どのくらい酸性雨の原因となる物質が降ってくるのか、その被害の調査、また実際に汚染源が本当に長距離を移動するのかということを、コンピュータプログラムをつくり、季節変動も入れて、汚染源と被害地域についての実証をやり始めました。ただし、条約そのものは、共同研究と情報交換を行うことだけがその義務で、具体的な排ガス対策については、極めて一般
的な義務しかありませんでした。
ところが、1981年暮れに、ドイツの「シュピーゲル」誌が酸性雨の特集をやりました。その内容はドイツの心の故郷である森が枯れ始めているというものでした。これを契機にドイツ国内の態度が一変します。それまでは、ヨーロッパの一般
的な認識として酸性雨問題は、せいぜいスカンジナビア諸国で鮭がいなくなったらしいという程度の認識だったのが、1982年以降は、自国内にも構造的な被害が現れているらしいという認識に変わりました。その後、旧西ドイツ、オランダ、北欧諸国が中心となって、この条約機構の強化とEC環境政策の強化を働きかけ始めます。その過程では、一元的強化に反対するイギリスとの綱引きはありましたが、1985年ヘルシンキ議定書の妥結に至ります。これは、SOxを1980年比で1990年までに30%削減するというもので、1987年に発効します。ヨーロッパではこれが現在温暖化で議論されている一律削減のモデルと考えられています。
しかもこの時に、自国はさらに厳しい対策を推し進めると公約する国が出てきます。一般
的に外交交渉というのは、自国の国益を実現する場であるので、国際合意というのは、達成目標が一番低いところに落ちつきます。ところが、酸性雨の合意では、他国よりも厳しい達成目標の宣言を一方的にする、またできる国ほど先進国という暗黙の了解が成立します。これがヨーロッパにおける環境問題の外交交渉で一つの流れをつくっていきます。環境問題ではできる国から厳しい環境基準を順次する、これを国際交渉の場で宣言してしまうというもので、従来の外交交渉の進め方とは随分違います。
もう一つの特徴は外交の科学化といわれるものです。先程説明したEMEPは、モニタリング研究によるデータを蓄積し、ヨーロッパ全域で一元化しています。これは、外交交渉と科学的インフラが一体になって、そこでは科学データの蓄積によって、各国の責任や被害関係が外交交渉の余地なく見えてしまいます。以上が、ヨーロッパ酸性雨外交から生まれた特徴的な点です。
SOx削減の議定書は1994年に改訂されました。このオスロ議定書では、上に述べた考えを更に徹底し、限界負荷という概念を採用しています。これは、編目に区切られたヨーロッパの地図の中で、例えば、SOxはこの区分領域には年間これだけしか落としていけない、そこから逆算して、その区分領域が限界負荷内に環境を保つためには、責任国は到達地点へのそのような影響を考えて国内対策を講じなければならないというもので。ヨーロッパではここまで科学データが国際条約に合体してきています。
それでは、東アジアで同様のことができるかというと、現状では不可能です。日本では、酸性雨問題で中国に技術や資金を出せば問題は解決すると考えられていますが、ヨーロッパの環境外交の推移を見てきますと、それほど簡単な話しではありません。二枚腰、三枚腰の外交交渉と科学的データの集約システムを築き上げないといけませんが、こんなことはもう不可欠だという結論になります。
ヨーロッパでは国際河川や国際内湾についても、70年代にこれを保全する条約ができてきますが、東アジアでの典型的な国際内湾である東シナ海や日本海では、そのようなものはありません。これまでの冷戦時代の外交史から見ると、国際環境保全機構が成立するというのは、直接環境のためにというよりは、軍縮協調が行き詰まった時に出てくる、東西対立の副産物でした。その意味でここは冷戦時代の基本的な構造がまだ崩れていないため、困難であるようにみえます。東アジアで国際的枠組みを形成するためには、環境保全をプラットホームにして、日本がヨーロッパのような国際的な科学インフラの構築に集中的にお金を投資することが必要となります。
従って、今までの説明を整理すると、環境外交が成立するためには、環境に対する投資価値、公害防止対策に対する投資価値が高い国でないとだめで、それは先進国間で辛うじて成立するような外交交渉であり、科学的ポテンシャルがある国の間でしか合意できません。
東アジアの酸性雨問題を単純化すると、被害国が日本で、汚染国が社会主義国中国ということになります。また、国によって経済の発展段階もまちまちです。これだけタイプの異なる国の間でコンセンサスを得ることは容易ではありません。どうも日本では、日本が資金と技術を持っているからという話しだけで、その間にある政治的な文脈を考慮しない議論が多すぎます。安全保障と環境保全をリンクさせるようなフレームワーク作りを、日本としても始めなければいけない時期にきています。
もう一つ日本の中では余り見えてこない議論に触れておきます。それは冷戦構造後における核処理の問題です。冷戦構造の中で、米ソは核開発にしのぎを削ってきたわけですが、その環境コストは非常に大きかったのです。例えば、アメリカのワシントン州のハンフォードと言われる砂漠地帯で、冷戦時代ここでは米国の原爆用のプルトニウムのほとんどを製造していました。その結果
、この地域一帯は核汚染が進み、それを今後どうするかという大問題が出てきています。これは冷戦体制維持のための環境コストとも言えますが、浄化するためには莫大な資金が必要で、ここだけで30兆円ぐらいの浄化対策費がかかります。また核弾頭を解体すると、取り出したプルトニウムを永久に保存しなければいけません。そのためにはまた膨大なコストがかかります。これはアメリカがこれから抱え込まなければならない環境コストということになります。
もっとすごいのが実はソ連の核汚染で、特に北極海の核汚染がひどいと言われています。この問題については、グリーンピースがデータを出しています。グリーンピースは、日本では一般
に、過激な活動団体と見られていますが、グリーンピースの活動がなかったら、南極の環境保全議定書は多分できなかったと思います。もともとグリーンピースというのは、水爆実験を阻止するためにできた組織ですので、核による環境汚染を防ぐという活動が今でもその活動の中心です。日本でも、日本海でのロシアによる核廃棄の問題が一時騒がれました。この事実を公表したのもグリーンピースです。
何故、彼らがこの事態を察知できたのでしょう。グリーンピースが特に力を入れているのが、冷戦体制の崩壊の中で、ソ連の核を安全にどう処理するかということだと思います。冷戦が終わって、核軍縮が進み、大量
の核を処理しなければなりません。しかし、もともとソ連は冷戦時代にもかなり無理をして核開発をやってきたわけですから、処理するためのお金も人も足りません。極東部分の核は海に捨てるのがよい。何故かというと、以前からノルウェーがソ連の核処理から大きな被害を受けており、また、ノルウェー沖にコムンソル号というソ連の原潜が一隻沈んでいます。ノルウェーは漁業立国ですので、このあたりの環境保全に神経を使っています。そういう事情で、北海や北極海の監視体制は厳しくなりました。モスクワにはグリーンピースの事務局があり、データは彼らは集めています。そこから、極東のウラジオストックにある老朽原潜などの核処理で、絶対に海洋投棄するという感触をつかみ、グリーンピースの観測船を張りつけておいたというのが事の顛末です。
グリーンピースが一番力を持ったのは1992年でして、現在その勢力は最盛期3分2ぐらいでかつてほど力はありませんが、ヨーロッパなどでは一定の地位
を獲得しています。その背景にあるものは、科学研究活動です。独自に得られる科学的データが、長期的な国際交渉、あるいは、長期的な国際交渉のフレームワーク形成に力を持つようになってきました。
これから大変だと思うのは、日本のアカデミズムが、政治とか外交が大嫌いだという事実です。それは自分達の不得意な分野で、場合によっては汚いものだという意識が研究者社会を覆っています。従って、日本は、一見、地球環境問題に貢献できそうでありながら、非常に重要な戦略の部分で、研究が欠けているため、当面
は何も対応できないのではないかという感じがします。ヨーロッパの環境外交の歴史と比較をしてみると、この点を強く感じます。