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ニュースレター
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1994年1月号 |
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"南太平洋の島々の自然から"(財)地球産業文化研究所 朝が来れば起きて働き、時には家の周辺で採れた野菜や果 物をかついで市に売りにゆき、或いは朝とってきた魚を板の上に並べて買ってくれる人を待つ。 昔とさ程変わらないリズムで生活が営まれ、そして時がゆっくりと流れてゆく。ここ毎年のように南太平洋の島々を訪ねてみて、いつも私の心にしみる南太平洋の風景である。 誰の書いたエッセイであったか、もう随分と昔に「南北東西軸」という一文を読んだ記憶がある。要するにヨーロッパ人のメンタリティーは南北軸、それに対して日本人のそれは東西軸だというのである。コロンブスが大陸を発見する1492年以前のヨーロッパでは西は果 てしなき海、東からはフン族やモンゴルが侵入して来たりホンコン風邪やペストが持ちこまれたりするまがまがしい方角、それに対して南北は美しい。特に南は正に“君よ知るや南の国”であり、“オリーブ香る美しい南の海辺”である。日本の場合はそれと違って東はお日様の出る方角で毎朝拍手打って拝むし、西は正に”西方浄土”極楽のある方角、その上すぐれた文明文物は皆西から伝来してきた。だから方向を言うにも日本は東西が先で、東北地方であり西南の役というが、ヨーロッパではノース・ウエスト航空となる。また日本人の持つ一般 感覚では、北に対しては無知と恐怖、南に対しては楽天と無知だという。今もって南太平洋と言うと何だか楽しそうな顔はするが、それは一体どの辺りと聞いたりする友人が多い。南太平洋の国といっても大方の日本人はグアムやサイパンを除けば殆んど知ることがない。 地球総面 積の三分の一を占める太平洋は広い。北端をハワイ、西南端をニュージランド、東南端をイースター島とする巨大な三角形で囲まれる海域、「ポリネシア」だけでもヨーロッパ大陸の三倍はある。赤道をはさんで存在するこの「ポリネシア」、「ミクロネシア」、「メラネシア」には多くの独立国や国連信託統治の国、それにニューカレドニアのようなフランスの植民地といった島も多い。 マゼランが南アメリカ大陸の南端を通 って太平洋に初めて入ったのが1521年3月、この時が大航海時代の始まりでもあるし、太平洋の幕明けであった。ここで初めて南太平洋の島々に住む人達が西欧文明に出会うことになる。 今これ等の国々に行くと、例えばフィージーの首都のスバやバヌアツの首都のポトーびらには海岸沿いに立派なリゾートホテルが建設され、数年前に較べると街を走る自動車も増え、商店街の店には電気製品が並び街は活気づいて賑わっているように見える。然しこうした開発と発展の利益が必ずしも国民全体にゆきわたっている訳ではない。一歩市街から外に出ればそこには昔ながらの暮らしがあり、あり余る太陽と一日に何回かのスコールと紺碧の空と海とがある。砂漠化が進むアフリカや中国の辺境、南米の高地等に住む人々と違って、南太平洋に住む人々は何といつも自然に恵まれている。彼等は太陽と雨と海と樹林のもたらす恵みの中で、もう何世紀もの間自然の戒律と呼吸を合わせて暮らしてきた。そして今日もその生活の基本はそれ程変わっていないようである。 今日、そのて21世紀にかけての地球的課題の最大のものの一つは環境問題である。人口、エネルギー、環境はいづれにしても21世紀の基本的政治問題になるに違いないと私は思っている。そしてこうした問題について語られる多くのことを見聞きするたびに、また自然を壊すな、自然に優しく、自然と共生しよう、等々の標語が何となく空しく聞こえてくるような時に私は南太平洋の島々に住む人々のことを頭に思い浮かべるのである。 そしてまた「豊かさが実感できるような生活」という課題が今日の日本の経済社会政策の一大目標として掲げられているが、あの南の島の人々の生活と較べてみて、果 たして今の日本人の暮しがその尺度でみれば上なのか下なのか、よくよく考えてみる必要がありそうである。 |
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