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ニュースレター
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1994年6月号 |
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宇宙船地球号と地球村のあいだ東京大学 先端科学技術研究センター
「宇宙船」というからには、それは言わばボルトとナットからできていることになりはしないか。ボルトとナットからできているのであれば、そして、まさしく宇宙船がそうであるように、それが人工物であれば、それは人間の制御の領域の内部にある。もちろん本物の宇宙船も、ときには人間の制御を離れて、爆発したり、軌道を外れたりもする。しかし、それは事故であり、人間の側の失敗であって、本来、それを造った人間は、文字通 りビス一本、ナット一個まで熟知していて、全体を完全に制御できるという前提の下で、それを達成しようという目的をもっている。 そして、もの地域全体を「宇宙船」に譬えるとすれば、われわれは、地球全体もまた、人間が隅々まで熟知した上で、それを完全に制御できる、という前提を持ち、それを実現しようとする目的を持つことになる。しかし、誰が考えても、その前提は全く根拠がなく、その目的も全く実現性のないことは明らかだろう。 それを、あたかも可能であるかのように、潜在的に思わせるとすれば、むしろ、この比喩の誤謬の罪は大きいことになるだろう。 おまけに、宇宙船に乗り込んでいる乗員は、宇宙船を操縦し制御するための十分な訓練を受けた人々である。宇宙船のミッションも基本的にははっきりと決まっており、目的についても、多義性や曖昧さはない。この状況を地球の状況と比べれば、このような比喩が如何に不適当であるかは明らかだろう。 一方、宇宙船の比喩をよしとしない人々の間では、近代化への留保の意図も込めて、「地球村」という表現が好んで使われる。しかし、これも私には馴染まない。「村」の定義をどのようにとるのであれ、「村」として規定してしまうには、あまりにも近代化された文明的な部分がすでに広く地球上に出現してしまっており、しかも、非近代的な部分も、良きにつけ悪しきにつけて、何らかの形で、近代化された地域との関連ぬ きでは存在できなくなつており、その全体を単に「村」として表現することは、これもまた、実情からすればミスリーディングというほかはないように思われる。あるいは「村」に戻したいという理想を盛った言葉だと解釈したとしても、今さら、この地球全体を「村」に戻すことは、これもまた実際上不可能だろう。 こうしてみると、地球についてのこれら二つの比喩は、ともに、極端に過ぎ、極論に過ぎると言わなければならない。もちろん比喩などというものは、本来レトリックなのだから、誇張と歪曲を責めては成り立たないと言われてしまえばその通 りであって、ここでとやかく言うこと自体が間違っていることになる。 しかし、ここで問題にしたかったのは、これら比喩の適合性というよりは、むしろ地球の現状をどのように捉えれば、一応誰の目にも正当と言えるのか、ということについての議論を起こす、ということであった。 私の提案は、「家」の比喩なら、比較的受け入れ易いのではないか、ということである。「家」には、年寄りもいれば乳児もいる。病人もいれば働き手もいる。価値観も一つに纏まっているわけではなく、各人が、それぞれの目的や要求を掲げて存在している。もし共通 の目的があるとすれば、それは、自分たちの属している「家」が、崩壊することなく、全体として、維持、保全されていくことである。このような構造は、先進国があり開発途上国があり、あるいは開発などには無関心な地域があり、しかもなお全体としては維持・保全を必要とする地球に似てはいないか。家長の絶対権力のある「家」もあるだろうが、基本的には集中権力機構なしで適当にその維持・保全を目指すという点でも、地球は「家」に似ているのではないか。そんなところから、私は「地球家政学」(Global Housekeeping)という概念を提唱しているのだが、さてどうだろう。
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