第5回「21世紀文明と国家の枠組み」
研究委員会から
冷戦後のアジアの新国際秩序と中国のインパクト
アジアの冷戦構造を考えてみると、それはヨーロッパの冷戦のように制度あるいは体系として固まったものではなかった。したがって冷戦の背景にある状況が好転すれば、冷戦の枠組みも好転していくと考えるべきである。そしてアジアの冷戦構造はヨーロッパのようにドライスティックに崩壊したわけでなく、徐々に崩れていったわけで、「冷戦の溶解」といったほうが適切である。
そのスタートは、1972年の米日接近のあたりが始まりと考えられる。そして、その後の日中関係の改善、あるいは中国とASEAN諸国との平和共存・国交正常化といった動き、さらにはポストベトナム戦争後の社会主義国同士の対立、といった様々な動きに依って、アジアにおける冷戦構造が溶解していった。但し、ここで注意すべきことは、冷戦時代に抱えていた問題が冷戦の溶解によって無くなった訳でなく、依然として重要な問題として残されているということである。
冷戦後のアジアの政治構造を特徴として捉えるとき、大きく三つの特徴がある。第一はアジア自身が地域として自立を初めているということである。すなわち、アジアの個々の国あるいは地域が、それぞれのレベルでプレゼンスを増大させたり、自己主張を強めてきている。これは冷戦時代にはなかったことである。第二は、アジア各国の経済成長により、ASEANの機能、役割が格段に高まってきたことである。もともとASEANは、域内の経済協力の組織としてスタートしたものが、政治、経済を合わせた域内の協力機構、さらには域外に対しての調整機能を果
たすようになってきている。第三は、アジアとしての自立化の議論の中で、西欧的ルール、あるいは価値基準に対する自己主張が強くなってきている。特に、人権問題やデモクラシーの問題に対して、この傾向は顕著に出てきている。
このような状況から、域内にどんな傾向が出てきたかというと、それは対立から共存への模索という方向である。例えば、ASEANとインドシナ三国が対立から共存の方向に動いてきた背景には中国の台頭があり、両者の接近は互いに中国を強く意識したところからきている。また、中国と台湾の関係では、1987年から非政治領域で交流を開始して、軍事的衝突の可能性は徐々に薄れつつある。南北朝鮮の問題も、中国が第三者としてイニシアチブを握っており、核疑惑といった問題はあるにしても大きな流れとしては、共存の方向に進んでいる。
したがって、ポスト冷戦の問題としては地域紛争が重要な問題となってくる。特に領土問題である。それも中国が関係する場所で問題が顕在化する可能性が高い。それから、経済、社会問題が政治化することが考えられる。貿易のインバランスの問題は、従来日本との関係において議論されることが多かったが、最近中国を軸といた貿易のインバランスが注目されるようになってきた。そして、最近出てきた問題が中国脅威論の台頭である。アジアにおいては、従来日本脅威論が主流を占めていたが、それは東南アジアとの関係でみる限りここ数年急速に低下してきており、代わりに出てきたのが中国脅威論である。これは、中国の軍事力の増強、核実験の継続実施、周辺諸国との係争地に対する強気な意見といったものが、この地域の力の真空論と相まって、対中脅威論を作り出している。さらに、中国の経済大国化の可能性や、従来からある人口大国としての脅威論が混ざりあって、中国脅威論が急速に浮上してきたのだと考えられる。
今後のアジアを考えるとき中国の存在はやはり大きく、中国がどのようになっていくかという点が非常に重要な要素になる。この観点で、現状の中国が考えている国際認識および外交アプローチの特徴をあげると次のようになる。まず、国際関係を規定する基本的要素に対する中国の認識は、国民国家という考えが非常に強い。冷戦後は違う要素が重要であるとの意見もあるが、アジアでは国民国家という考えが従来より強くなってきており、それを最も強く主張しているのが中国である。いっぽう国際関係を規定する力については総合国力論であり、これは経済を軸として政治、軍事、社会といった多岐の分野で国力をレベルアップすることが重要であるという考えである。ここでは国際関係をパワー・ポリティクスとして捉えようとする傾向が強く出ている。したがって、彼らが考える国際構造を形成する中心主体は大国主導型の秩序論である。しかしその一方で、国際問題の処理において重視しているものは二国間外交である。
一方、今後の中国の内側を考えると、以下の四つのシナリオが考えられる。
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経済成長・政治安定優先のシナリオ1=大統一型orカスケード型
権威主義
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経済成長・政治安定優先のシナリオ2=統一中国の民主主義体制
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地域利害優先のシナリオ=群雄割拠型統治
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大混乱のシナリオ=共産党体制の崩壊、経済・社会の行き詰り、
矛盾噴出
この中では1.の可能性が一番高い。一般
的に権威主義体制は全体主義から民主主義に移行する過渡的な体制と理解され、70〜80年代の台湾、韓国の状況がその典型であった。カスケード型権威主義とは、制限された形であるが中央の統治が保たれ、その下に各地方レベルで多様な中型、小型の権威主義体制が併存し、それぞれが上位
に服従する形で重層的なヒエラルキーを形成しているといった政治体制である。この形態は、あたかも滝が地形や水の勢いによって、幾つもの小さな滝(カスケード)に別
れる姿に似ているため、このように呼ばれている。1.を採る理由は、第一に、現在でも依然として共産党体制下に再編成された権威主義が温存されていること、第二に、文化大革命などの政治的混乱の経験から国民各層に政治安定の指向が強いこと、第三に、市場経済化が進みイデオロギー、政治組織による統治が弱体化して軍事力の比重が増大していること、第四に、これがカスケードと言われる由縁であるが、分権化政策によって地方の自立化、パーフォマンスの増大などである。したがって、中国はこのような体制のもと経済成長と政治的安定がしばらく続き、その帰結として21世紀のアジアにおける中国のプレゼンスはますます増大していくことになる。
中国の力の増大を踏まえ、21世紀の新秩序を考えると以下の五つ形が考えられる。
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国連中心型秩序+多角的二国間関係(理想型)
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一極主導型秩序+多角的二国間関係(アメリカ中心、新華夷秩序)
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新多ブロック並存型秩序(ASEAN,
APEC)
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新冷戦(2極)型秩序(アメリカvs中国)
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新大三角関係型秩序(米・中・日)
新華夷秩序というのは、中華を中心としてその周辺に対してある種のヒエラルキーがあり、その前提のもとに階層的な秩序が形成されるという考えである。
中国の今までの認識、アプローチから導かれる新しい秩序は2.、4.、5.
の方向に進む可能性が高いが、アジアにとって望ましいのは1.、3. という方向に中国が向かうことであり、それを中国は今日求められているのではないかと思う。
中国の国民性・儒教思想と21世紀の行方
これからの中国を考える場合、文化大革命の後遺症と中国にある伝統的なもの、この二つを見ておく必要がある。西欧諸国と中国が対持したとき、両者の文化の違いが強烈に出て来ると思われる。アメリカは現在外交政策上人権カードというものを使っているが、これはほとんど中国人には理解できない要求である。なぜなら、ここでいう人権という意味が中国では全く違う。アメリカがいう人権とは、個人主義から発生した個人の尊厳という意味での人権である。しかし、中国にはそういう経験は全く無い。したがって、個人の尊厳という言葉は、中国人にとって概念の産物でしかない。西側諸国に留学した人は別
にして、後の人は全然分からないと思う。
中国の統治システムを見てみると、少なくとも辛亥革命の頃までは国家は二つの層に分けられる。一つは皇帝を頂点とする国家機構である。これは中央集権的な官僚体系であるが県知事クラスまでである。この県知事のイメージは日本でいうと大きな町の市長という感じである。また、中国での官僚という意味は知識人という意味である。そして、県知事より下のところになるとこれは官僚ではない。したがって、県知事クラスまでの知識人で構成される中央集権国家という統治システムが一方で存在する。その県知事が赴任すると、行った先で自分のすることはとくになく、そこでは宗族・家族というものが実質的に町を運営しており、その統治システムが機能している。したがって、県知事は宗族の長、大家族の長と話をつければ事が足りる。そして知事は数年たつと違うところに転任して行くといったシステムになっている。そして、これが数千年続いてきた訳で、現在でも上が共産党の党官僚に置き変わっただけで、システム自体はあまり変わっていない。
そうすると個人は、あくまでも家族の中の個体であって、個人の尊厳という考えはここには無い。もし個体が悪いことをすれば、一族の長が処罰するので、それが抑止力となって一定の秩序が成り立っている。このようなシステムを前提として中国の家族主義があり、いままでずっとこのような生き方をしたきた。
一方、キリスト教文化圏では唯一絶対の神が存在し、神と個人の関係ができている。国とか家族とかいう中間の組織はあっても、個人にとっては神の方が上である。そして神への恐れから己を律する自律というものがあり、そこから個人主義が発達してきた。その意味での人間、個人主義というものを中国人にいくら言っても分からないと思う。
次に、文化(生き方)と文明(技術)の観点から見ると、わが国の明治維新前後では、キリスト教文化圏の文明の方がはるかに儒教文化圏より高かったことは事実である。それは、鉄道を作り、機関車を動かし、鉄板の船を作っていた。そこで、中国も日本も西欧のまねをしたが、ここで西欧文明を生んだ文化も同じように高いとの錯覚があった。文化としての個人主義を導入しても実質はわが国も家族主義であるから、なかなかこれは根づかない。典型的なのが日本憲法で、憲法の基本は欧米流の個人主義に基づいているが、社会は家族主義で動いている訳で、日本はそこでねじれ現象を起こしていると思う。
儒教文化圏の中で、中国・韓国というグループと日本は少し違う。中国・韓国の場合は頭から足の先まで家族主義で動いている。韓国では明治維新の日本のように個人主義を取り入れようとしているため、学校では個人主義であるが、実質は家族主義である。一方日本は、教育により首から上は個人主義であるが、実際は利己主義である。何故かと言うと、神への恐れがあって初めて個人主義が成立するのだが、日本には絶対唯一の神がいない。そうすると、律するという意味が曖昧になり利己主義に転化しやすい。100年努力しても個人主義が育たないという状況からして、結局、わが国は利己主義である。見かけは個人主義、実質は利己主義、そして首から下は家族主義というのが日本の状況である。
これからは、儒教文化圏でも個人主義と家族主義と利己主義の三つどもえになってくる。まず中国の場合は、国際的な場合と国内的な場合に分けて考えた方がよい。まず、国際的にはキリスト教文化圏の個人主義に対して、家族主義を主張するであろう。国内的には、これから家族利己主義が肥大していくであろう。個人個人はエゴイストのように見えるが、中国の場合家族という単位
で強くつながっているので、その単位での利己主義が強くなっていく。そして、中国は今後かなりこの家族利己主義に悩まされることになると思う。従来は、社会主義とかその他のものがこれを抑止したきたのであるが、社会主義の看板が無くなった時どうなるのか、そこが非常に疑問である。
日本の場合、国際的には個人主義に追随するので個人主義を主張する。国内的には今後、見かけの個人主義、実質の利己主義をどう調整して行くのかということが大きく浮上して来ると思う。
韓国の場合、国際的には日本と同じ個人主義に追随すると思う。一方国内では、中国と同じように家族利己主義の肥大が起こって来る。そこに個人主義も出てきて、その抑止に当局もかなり困るであろうと私は見ている。