第12回地球規模の問題を考える懇談会から
「英国の資本主義と日本の資本主義」
−なぜ、二つの文明圏の辺境で生産革命が起こったのか−
早稲田大学政治経済学部教授
川勝平太
私の専門は経済史です。本日は歴史的すなわち長期的な観点から、(1)イギリスは何故「世界最初の工業国家」となり、また同じように日本は何故「アジアの最初の工業国家」となったのか、(2)近代日本資本主義の発展は、本当に教科書で書かれているような西洋の資本主義のキャッチアップであったのか、(3)工業化を経験した両国が、その先に何を求めたのかあるいはどの様な道を歩んだのかという点について、私の視点を思いきって加えながら、説明してみたいと思います。
昨年、ノーベル賞を受賞した大江健三郎さんが文化勲章を辞退したのは是か非かという議論がありましたが、確か3年前、東京大学の名誉教授である大塚久雄先生が文化勲章を受賞されました。日本におけるイギリス経済史の権威です。大塚先生の問題意識は一貫して、何故、イギリスで最初の産業革命が起こったのかという事でした。先生はこの問題について講義される時、いつもロビンソン・クルーソーの話から始められるのです。その物語の主人公は、一人小さな島に取り残されて生活を始めるのですが、そこでは全て自分一人でやらなければならない、自給自足の世界です。次に経済の基本は何かという話になると、アダム・スミスの「国富論」の一番最初に書かれているように分業です。そこには、有名なピンの話が出てきます。一人でピンを作ると1日1本も作れない。しかし、これをある人は頭を作る、ある人は釘のところを作る、またある人は溶接するという様にすると、一人で1日5,000本も作れるようになる、分業により労働の生産性が高まるということが延べられています。分業があれば必然的に商品交換が行われます。イギリスの場合、それが農村から始まったと主張されるのです。
それでは何故、このような現象がイギリスの農村に出現したかというと、そこに近代的な人間類型が現れたからだというのです。商いして儲けるという商人の歴史は、人類の歴史と共に古いのですが、獲得したお金を貯蓄しそれを投資に回すという形態は、近代に初めて出現したものです。そして、この人間類型の背後には一種の倫理観がある。いわゆる、プロテスタンティズムの倫理です。その特徴は、世俗の中に禁欲するということで、浪費しないで生活を合理的に切り詰めると、物が貯っていき、貯っていくことは神への奉仕の証と考えられ、貯蓄はますます大きくなった。それが投資に向かう、それがイギリスの農村で起こり、そして局地的な市場圏が形成され、それが内生的に発展することによって、国民経済まで広がっていったと先生は述べられているのです。
先生がイギリスとよく対比されるのはオランダですが、オランダは中継貿易で物を作らない。だから、滅びていったという言い方になる訳です。商業ばかりしているところからは、国民経済は出てこないという意味がそこにはある。そして、イギリスを鏡として日本を見るとき、農村が遅れ政商が利潤を追求する姿は、本当に近代の姿ではないという強い主張が、そこには込められていたのです。
さて、そのイギリスと日本が初めて出会ったのは幕末の開港の時です。日本を開港させたのはアメリカですが、その後、アメリカは南北戦争が勃発して国内問題で手一杯となり、フランスはドイツとの争いで日本の事を考える余裕はなく、したがって、明治日本との関係を継続して保ったのは、イギリスだけだったと考えていいと思います。基本的に、日本とイギリスの貿易関係は、中国や他のアジアの関係と同じで、イギリスが日本を含めたアジアの国々に求めたものは、自国の産業革命によって大量
生産された製品をいかに売るかということでした。その製品が何かというと木綿です。19世紀には世界の人はみな木綿を着ていましたから、当時の木綿は、今日の自動車をしのぐ国際商品だったといえます。その木綿をイギリスは大量
生産で安く供給しており、日本の家内工業的な生産では、とても競争にはならないと考えられてきたのです。ところが、日本人は、価格が安いにもかかわらず向こうの織物をさほど使っていないのです。その理由は、用途が違うからです。外来の木綿は、ペラペラしているので、裏地にしか使われていません。日本だけでなく中国、朝鮮、台湾で使われている木綿はみな厚地で、イギリスで使われていたのは薄地の木綿です。したがって、競争関係は無い。だから売れなかったのです。イギリスの木綿は下着や夏着用でしたが、一方日本の木綿は労働着で、それとは別
に冬服を持っているわけではありません。日本人は江戸時代、将軍から庶民に至るまで木綿は冬に使い、夏は麻で過ごしている、ちょうど向こうの毛織物に当たるのが日本の木綿だった訳です。こうして、木綿という商品を通
して日本とイギリスの関係を見てみると、商品の市場圏は明らかに異なっており、イギリスと日本を、先進、後進という形で捉えるは、間違っている可能性があります。
世界の歴史を遡って行きますと、中世の末(15世紀まで)日本と西ヨーロッパは基本的には文明の辺境だったと思います。ところが、1500年ぐらいから産業革命が起こった1800年ぐらいまでの300年の間に、社会の仕組みがいろいろと変わっている。そして、19世紀にモダン・エイジという時代を迎えるわけですが、実は近代への転換は、日本でもこの300年間に起こっていたと私は考えています。現在、江戸時代をどう捉えるかという点で、学会では「経済社会」と見るのが通
説になっています。1500年から1800年ぐらいの間に、日本と西ヨーロッパで、今日の市場経済の基になるような社会が成立してくるのです。かつてのローマ帝国や中国の漢帝国も、あるいはオットマン帝国も世界システムといえますが、これらはいずれも政治を中心にした世界のシステムです。ところが、近代に成立したものは、経済を中心としたシステムであり、そして、そういう経済中心の社会システムが西ヨーロッパと日本に出現したということです。
では、経済社会が何故生まれたのかと言いますと、15世紀から18世紀の間に生産革命が生じたからです。普通
、人類史の中で最初の大きな革命は農業革命、第二のそれは産業革命と言われますが、イギリス産業革命は生産革命の一つのタイプでしかありません。そもそも生産とは、生産するための要素、資本と労働と道具および材料の組み合わせです。道具や工場等は資本、そして材料は土地に入ります。
土地と労働と資本の組み合わせで生産は成立しますが、その組み合わせは一つだけかというと、そうではありません。ヨーロッパはアメリカへの植民により土地は広大でした。植民がなぜ必要だったのかと考えてみると、ヨーロッパの土地はだいたい北緯45度以北で、非常に寒いところに位
置しています。そこで農業をする場合、土地が貧しいため比較的広大な土地を耕さないと、人間一人の生活を養うことができないわけです。それが一因でアメリカに移民したところが、土地はますます広くなったがそれに対する人間は少ない、そこで、人間の労働力を節約して資本を集中的に使うという形での生産革命がヨーロッパで起こったのです。
ところがわが国では、土地はイギリスの2倍程ありますが、山がちで耕地は少ない。そこで、日本では何が起こったかというと、江戸時代に牛馬の数が実に20分の1に減って、馬力が人力に変わるということが日本で起こっています。馬の場合、それが動き回ることを考えると、比較的大きな土地が必要ですが、その土地を田畑に変えているのです。人口は1600年から1700年の100年間に3倍の3,000万人以上になっています。耕地は1.4倍ぐらいで、そういう形で18世紀を迎えています。そうすると、日本では土地に労働を集約的に投入して土地の生産性を上げる、二期作や二毛作にしたり、畑の畦道にはたばこや桑を植え、全く無駄
のないように土地を利用して生産性を上げる、そういう生産上の革命が江戸時代に起こったのです。
これについて、速水融という人はうまいことを言いました。彼はグラフを描きまして、縦軸に資本、横軸に労働力をとります。土地が広大であったヨーロッパの場合、労働は余り使わないで資本を多く投入するという組み合わせになります。そうすると直線の傾きは急になります。一方、日本の場合、資本をできる限り節約して労働力をどんどん使う、当然、直線の傾きは低く寝たものになります。こういう組み合わせで新結合、いわゆる経済発展が起こりました。前者はイギリスで起こった現象であり、これを我々は普通
インダストリアル・レボリューション(産業革命)と言っています。後者は日本で起きた現象であり、彼はこれをインダストリアス・レボリューションと言いました。インダストリアスというのは勤勉という意味ですから、これは勤勉革命ということになるわけです。
日本人はよく働き蜂であると言われますが、中国人が日本人を働きすぎであるとは言いません。ヨーロッパの方々がおっしゃるわけです。彼らにとって、労働をなるべく節約することは理にかなっており善です。一方日本では、労働を投下し集約的にしていくことが、善であり理にかなっている訳です。勤勉ということが道徳的にも善になりました。日本人はいつ頃から勤勉になったのかというと、それは江戸時代に生じているのです。そしてこれが何故生じたかという点で、前に話した木綿の話に戻りますと、19世紀の近代になって、木綿は世界中の人が使うようになりました。では、江戸時代以前、戦国以前、室町、鎌倉の時代に日本人は木綿を着ていたかというと、誰も着ていません。イギリスでもエリザベス以前、木綿は、誰も着ていないし持っていないわけです。したがって、それはどこか外国から来たもので、アジアから来ていたのです。日本の場合、中国、朝鮮から戦国時代に軍服用として輸入したのが始まりです。それまでは麻が主で、麻は繊維が固いため1年に2反程しか織れません。片や木綿は、後で日本全国で作られるようになりますが、1日半から2日で1反織ることができます。そして、それも汗も吸うし、洗濯もでき、冬は暖かいといった具合いですから、争って海外から買う事になるわけです。そして、朝鮮がだめなら次は中国といった具合いで、輸入が増加していきます。ところが江戸時代になると、これを国内で作っています。木綿を輸入していた頃の対価は、金、銀、銅といった貴金属で、木綿のほかにも、砂糖、良質のお茶、さらに生糸も買って、手持ちの貴金属が輸入品の対価として、どんどん国外に流失しました。貴金属が無尽蔵にあれば別
ですが、有限ですから、どこかでストップをかけざるを得ません。どうするか、自分で作る以外ありません。近世の生産革命が近代日本の出発点です。
一方、ヨーロッパ人の使った木綿はどこから来たかというと、インドから来ており、木綿のことを風の織りなしたような織物だと言って憧れたのです。その支払がかさみ、そのうちに新大陸に自生していた綿花を見つけ、そこから綿花を持って来る。またコーヒーも、もともとモカから輸入されていたものを、西インド、ブラジルに移植する。大西洋のかなたは自分達が植民した地ですから、異教徒から買うという危険がありません。新大陸でつくって、大西洋を己の海として賄いました。ただ、生産地とは非常に距離があるので、労働の生産性を上げる以外にありません。世界で最初の近代的鉄道は、リバプールとマンチェスターの間に敷かれました。リバプールは綿花の輸入港、マンチェスターは木綿製品の製造の中心地、そしてまた、そこから製品を世界へ輸出する港で、距離の差を資本で補ったのです。そして資本を集約して労働を節約するという形で、輸入品を買わなくて済むようになっていきました。その結果
、旧来のアジア文明圏からだんだん離脱していくという状況が起きました。従来は、色々な物をアジアから買っていました。新大陸で多くの貴金属の鉱山が見つかったといっても、そのかなりの部分はアジアとの物品の交換のため使われましたから、全体のバランスシートで見れば赤字だったのです。ところが、徐々にヨーロッパの場合、従来アジアから持ってきたものを大西洋のかなたに移植するとか、もしくはそこで似たものを見つけて自給していくことによって、アジアから離脱していったのです。これはアジアからの離脱ですから、「脱亜」と言っていいと思います。つまり産業革命というのは、自生的というよりも外圧に対するレスポンスとして起こっています。どこからの外圧に対するレスポンスかといえば、アジアです。
より場所を特定するならばイスラム的アジアです。このように見ると、産業革命はオリエントからの圧力に対するレスポンスとして起こった革命であり、危機の中から起こった革命であると言えると思います。
日本の場合はどうかといいますと、戦国時代、戦争にはお金がかかりますので、戦国大名たちは鉱山開発に力を入れました。山師たちが活躍して金鉱脈や銀鉱脈を次々に当て、発見された大森の銀山にしても、生野にしても、あるいは佐渡の金銀山にしても、当時の世界の金銀産出量
に匹敵ないし凌駕した可能性があると言われています。17世紀の初めに、日本から輸出された銀の量
だけで、その当時の世界の銀産額の3分の1に達しています。したがって、当時日本は相当量
の銀を持っていたと推定されます。特に、朝鮮と中国に対しては銀と銅で決済をしていました。そして1639年に最後の鎖国令が出て、長崎と対馬、琉球が窓口となりますが、貿易はその後も続いています。しかし1800年ぐらいになると、むしろ中国から金がこちらに流れて来るようになります。その間に、従来海外から買っていたものを、全部国内で作るようになっていたのです。国内で作るようになってアジアから離脱していったのです。これも「脱亜」です。しかし、日本が脱亜した相手は、ヨーロッパの場合とは異なり中国的アジアです。
脱亜といえば、明治18年に福沢諭吉先生が有名な「脱亜論」をお書きになった。福沢先生の脱亜は、「今、文明がどんどん東漸してきた。日本はいちはやくその重要性に気づいて乗り換えたけれども、隣国は頑迷でそのことに気が付かない。ヨーロッパ人から見ればアジアは皆一つだと思っているから、我々だって頑迷なやつと見られるかもしれない。中国や朝鮮は悪友だ。悪友との交際は断固謝絶し、脱亜の一事あるのみ」という激烈な文章です。これは入欧していくという話ですが、これはいわば慶應版脱亜論で、私が言っているのは早稲田版脱亜論です。
こうして、イギリスと日本で「脱亜」が起こる。これは単に経済的なものだけでなく、世界システムをどう見るかという世界観においても、それぞれが脱亜した相手の世界観を借用しているように思います。現在、戦争と平和という軸で世界を見るのが当り前のようになっていますが、この元はイスラムの「戦争の家」と「平和の家」という見方です。「平和の家」とはイスラム化された世界であり、もう一つは戦闘の世界、異教徒の世界です。これがヨーロッパの国際法に影響を与えたということを、最近研究者が書き始めています。イスラム的世界から影響を受けてヨーロッパが自立していったということが、ここで良く分かります。
次に日本はどうでしょうか。江戸時代日本が統一された頃に国際法があったかというと、ありません。その当時国際秩序を持っていたのは中国と朝鮮でした。それは、朝貢貿易あるいは冊封体制と言われるものですが、日本もこれを採用しています。例えば、琉球は日本に朝貢するものだと考える。あるいは、日本に来る朝鮮の使節団も同ように朝貢だと考えるわけです。すなわち、徳になびいて人がくる、そういう国際秩序をつくっているわけで、文明と野蛮、あるいは華と夷の秩序と言うことができると思います。したがって、1500年〜1800年の時代、日本とヨーロッパはそれぞれ違う世界観を持って国際秩序をイメージしていました。一方は戦争と平和、他方は華と夷、そういうイメージです。そしてヨーロッパの場合、交易で得ていた物を大西洋をまたにかけてつくり、日本は、それを国内で全部つくってしまったのです。
日本の開国を、我々は欧米列強に対して国を開けたと考えますが、自由貿易に組み込まれるという事は、単に欧米だけでなくアジア地域も、そのシステムに入るわけです。日本が開国することにより、どこと競争したのかと考えると、それは同じ物をつくっていた所です。中国や朝鮮から交易で得ていた物を代替していった訳ですから、アジア間の競争の中で打ち勝っていったと考えるべきです。最も重要な輸入品であった生糸も、明治期には日本最大の輸出品にのしあがり、20世紀の初めには中国を抜き、木綿についても日本の紡績工業が競合したのは、他のアジア地域で作られた木綿です。したがって、日本が工業化していく過程は、西洋に対するキャッチアップというよりは、アジア間の競争において勝っていく過程であり、その中でいわば脱亜の完成形態として、アジア最初の工業国家になったと考えるべきです。
イギリスの産業革命について大塚先生は、ロビンソン・クルーソーの話から始められて、イギリスの農村で生まれた小さい市場圏がだんだん自生的に大きくなって、世界に拡大していったと言われましたが、それに対して私は、外圧があってそのレスポンスとして産業革命が起こったということをここで申し上げたわけです。
もう一点つけ加えますと、従来の歴史の捉え方は「陸地史観」で物事を考えています。それに対して私の考え方は「海洋史観」です。イスラムの海から、アジアの海から物が入ってくる。イスラムは通
商ネットワークを海に持っている。チャイニーズは、我々は大陸チャイナしか見ていませんが、我々が本当に直面
しているのは、実は海洋中国、マリンチャイナです。上海以南にいる、江蘇、折江、福建、広東にいるチャイニーズは海洋メンです。我々は彼らを華僑と呼んでいますが、彼らは南宋の時代から海外にいるわけで、その人達が南シナ海の情報網、通
商網を握っている。そういう流通で生きているチャイニーズとイスラム商人がアジアの海を押さえていた。彼らがこれらの海がもたらす珍しい物品、例えば、木綿や砂糖、あるいは美しい陶磁器や絹織物、こういうものに憧れて金を払い始めたならば、これは嗜好を作りあげるので、金の続く限り買うことを止めることは出来ません。これは市場の圧力というべきものであり、戦争の圧力あるいは軍事力の圧力に匹敵します。そういう圧力に、日本と西ヨーロッパは1500年前後から直面
して、それをどう乗りきるかということで、流通ではとてもかなわないので自力で作るしかないという方向に動いていったのです。その時に、人類史上初めて、生産を是とする倫理ができ上がっていきました。生産重視の倫理ができ上がってくる背景には、流通
を握っている世界の二大勢力モスレムとチャイニーズに直面していたという事実があります。それに対処するための倫理であったといえます。一方は勤労、他方は労働の節約ということで対応する。両方とも、無理をしているわけで、無理をせざるを得ないほど、私は危機が深かったのだと思います。
現在、日本の生産を中心とする考え方が、アジアのNIES諸国に広がりつつあります。今まで流通
を中心にしていた人々に、生産の妙味が覚えられたという感じがします。そこに日本との共通
性が出てきているわけですが、長期的にみれば、中国の周辺地域がチャイナからだんだん自立していく、そして今度はそれが反転して中国大陸の内部に向かっていく、現在そういう段階にあると私は思います。
イギリスと日本が生産革命後たどった道は少し違います。一見、イギリスは海洋帝国のようですが、支配者階級の価値としては、日本との対称が見られます。イギリスは地理的にみても、海外との関係を海洋国家として生きざるを得なかったのですが、イギリス人は恒産を成しますと、どこに投資したかというと、日本がバブルの時にアメリカの土地や建物を買ったのとは異なり、近代社会が確立する19世紀中葉に至るまで、主たる投資先は国内の農村です。海外に投資した方がより多くの利益を得たかもしれません。しかし、彼らは投資先はカントリーサイドでした。イギリスに行くと分かりますが、ロンドンを一歩出るとそこには緑の美しい景観が広がっています。これは野生の景観ではなく、人の手と金と投資が数百年にわたってストックされ、作られた景観です。ヒースロー空港からロンドンに行くまででも分かりますが、ケントやオックスフォードに行っても、またケンブリッジの方に行っても、見渡す限り美しい景観が広がっているのは、彼らがそういう土地に投資をしてきたからです。
ところが、日本は武士も含めて、ほとんど土地から離れました。日本で近代化というと都市化ということになり、ここがイギリスとは違います。この点は今日の日本として反省すべき点かもしれません。なんとなく我々は、近代化というと都市化というように考えますが、イギリスの近代化はそこで終わっていない。人間一人一人の生き方も、シティで産を成したあと、彼らはカントリーサイドに戻る。そこは必ずしも自分の生まれ故郷ではありませんが、そこでジェントルマンの生活をする。その生活様式がエリザベス?世の時代から脈々と続いている。イギリスの資本主義はジェントルマン・キャピタリズムであるというのが、今日のイギリス人の自己認識のようです。
つまり、自分達は産業資本主義ではない。したがって、日本とは違うという意味がここには込められているように思いますが、ジェントルマン・キャピタリズムの価値は一貫して、過去から今に至るまで変わらなかったと彼らは言っています。それに対して、一応日本資本主義には、ジャパニーズ・コーポレーション、株式会社というコンセプトがありますが、いかにもこれは文化の薫りを欠いた寂しい概念です。イギリスの近代化の最終的な帰結が田園というところまで戻っているということは、今日の日本に何か示唆的なものを与えているようにも思われます。