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ニュースレター
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1995年7月号 |
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第2回「高度情報化がもたらす社会変容と対応」--研究委員会から-- 1.ソフトウェアの未来コンピューターを実際に動かすためには、ソフトウェアが必要である。ハードウェアのほうはメモリーチップの集積度が上がるといった技術革新が進み、ダウンサイジングが進んで来た。その結果 、我々の周囲でもパソコンを利用する機会が格段に増加してきている。そして、もう一方で、これらの端末が互いに結ばれるというネットワーク化の流れがある。このような状況から、ソフトウェアの世界で今何が考えられているかというと、インテリジェント・エージェントというものがある。エージェントを日本語に訳すと代理人であるから、トラベルエージェントもあればネットワークエージェントもあるわけで、ここで説明するのは、コンピューターのソフトウェアでできているエージェントについての事である。 例えば、我々の身近で考えた時、企業でもその他の団体でも、組織のあるレベル以上の人には秘書がいる。秘書が本人に代わって、身の回りの事を色々と処理してくれるという状況があるわけで、そのような仕事を電子的にやってもらうという考えである。 ネットワークを利用しようとする際、電子メールを使ってみるとすぐに嫌になってしまうのは、メールが山のように来て、それをどう仕分けするかだけで日常の大問題となってしまうからである。それをエージェントにやってもらう。メールの中身を読み、返事を出してくれる、あるいは放置しておく。そういう事を実際に処理してくれるソフトウェアのエージェントが考えられている。 また、我々の世界で困っているのが会議のスケジュール調整である。これについても当人達が自ら調整するのではなく、それぞれのエージェント同士が適当にコミュニケーションして決めてくれる、あるいはサジェストしてくれる。当然、それぞれのエージェントが優先順位 を持っていて、会議スケジュールが決まっていく。 あるいは、現在急増しているインターネットの利用で考えてみると、論文をどこに送るとかあるいは関係する情報を探して取って来るという仕事は、自分の手で処理するとなるとかなり煩雑な作業が伴う。これを、電子的エージェントに任せればかなり楽になるわけで、このような電子秘書を作ろうということが実際に行われている。 電子的な個人秘書が持っているインテリジェンスを実現させる方法としては、従来は人工知能的手法で考えられていたが、最近ではソフトウェアに学習させるという方法が考えられている。これは、最初はユーザーが端末の操作を行い、その行動を全てある種のメモリーに記録しておく。これはMemory-based-reasoningと呼ばれている方法であるが、基本的には、全てのパターンを覚えておく。そして新しい状況が出たとき、前に行動したケースとの距離を取るという感じで、その状況に近いものを取り出して来る。その次の時には、過去にやった行動に近い方法を取るという形で情報を蓄積していく。その繰り返しをしながら学習し賢くなっていく。 同じようなことで、全部覚えておく必要のある話とか、ある条件下でしてもらっては困るといった事を、エージェントが作業した結果 に基づき記憶させていく。そうすると、これを覚えていくことによって訓練、教育が進んで行く。また、ある程度進んだ所である種の一般 化を行う。そういう技術がいくつか出てきて、メールのハンドリングやスケジューリングなどでは、ある程度使えるような状況になってきた。個別 のエージェントが教育されていくと、次にはそれぞれのエージェント同士が話をして自ら学習能力を高めていく。もっとよく訓練を受けた秘書がどこかにいるわけで、それをエージェント自らが探しにいくようになる。このような場合、どのように技術的に対応すべきかということがかなり研究されている。したがって、個人電子秘書レベルのソフトであれば、比較的早く実現できるようになると思う。 もう一方で、個人秘書とは異なりかなり専門的な知識を持ったソフトウェアが、一人歩きする可能性が出て来ると思う。ソフトウェア・エージェントの社会であり、マルチ・エージェントとも呼ばれる。複数のエージェントが存在して、互いに協力したり協調したりして問題を解決していく。昔は、これを分散人工知能と言っていたが、エージェントを研究していく中でこの話が復活してきた。以前は、かなり仮想的な話であったが、現在ではこの分野の研究が非常に盛んになってきた。 エージェントの社会とは、ネットワークでつながった多くのコンピューターが存在する世界の中で、仮想的にソフトウェアがあたかも人間のように生きている社会である。その中では、エージェント同士のコミュニケーション方法である訳で、プロコトルを決めるとか、エージェント同士の言語をどうするかといった問題を解決する必要があり、そのためにある種のエージェント言語を研究しいてるグループもある。 では、この様なエージェントを使用して何をするのかというと、例えば、インターネットを利用する時、自分の求める情報がどこにあるのか調べるのは非常に大変である。結局は、人間同士のコミュニケーションを通 して口コミで聞くとか、どこかの電子伝言板を見て、そこへ入り込んでいって情報を取ってくるといった事をしなくてはならない。この部分をエージェントにやってもらう。例えば、情報を取って来る部分、仕事ができる人を探す部分、あるいは仕事の発注・交渉などである。そういうものを実際にネットワークの中を渡り歩いて処理してくる。渡り歩くという意味は、物理的にプログラムが動いて、ソフトウェアを移動して向こうの出先の人のエージェントと交渉してくる。場合によっては、最初のところが駄 目であれば次の対応を取るといった具合いに、コミュニケーションを回線を通 して行うだけでなく、本当にプログラムごと出かけていってやってくるといった世界を実現しようとしている。何故、プログラムが実際物理的に動くのかというと、第一は、ネットワークの交通 量は今でももう大変だからである。また、こちらとしてもその都度遠くの方でやっていることを干渉したくない、また、発注した仕事は早く忘れたい。あるいは、出かけて行ってみなければ分からないことも沢山ある。そういう事を実際にやってもらいたい。 このような擬人化されたソフトウェアの社会があって、それが我々の社会の中に埋め込まれるわけで、経済活動や社会活動のあらゆる領域をカバーすることになる。したがってこのマルチエージェントに関しては、社会学や経済学を始めとして色々な人達によって議論され、学会をつくるといった話もある。 この世界では、人間社会にある殆ど全ての現象の比喩がエージェントの世界に対応するわけで、それ自身多くの場合意味がある。例えば、この世界で子供が生まれるということは、二つのエージェントの持っている知識を合体して一つの子供を作るとか、あるいはそれを少し修正した形でつくるといったことになる。エージェントが学習するということは、子供が成長するのと同じである。また、必要がなくなったら殺してしまうとか自殺するということも考えられる。それから、エージェント同士が集まったグループ全体としての所属が、民族であったり国であったりすることもある。そこで、エージェント同士の戦いが起こるということも有り得る。また、エージェント同士のコミュニケーションでどういう言語を使うかプロコトルを使うかで、ある種の文化圏みたいなものができる可能性も十分ある。そこでは、人間社会のように異なる言語を翻訳する通 訳のエージェントが出て来るといった具合いで、我々の社会の中で起きているあらゆるでき事が、ネットワークを介して電子の空間の中で可能になるという事である。 このようなソフトウェア開発の背景として、幾つかの事が考えられる。まず、コンピューターが小型化されてたくさんの人が使用するようになった。そうすると、だれでも使えるようにしないと売れない。使い易いという点を追及していくと、どうしても何となく人間の話しているようなインターフェィス機能を持たせる必要が出て来る。そういう社会の状況が一方に存在する。また、我々のコンピューターに対する認識も、以前は、ある種の方程式を解くあるいは情報処理をするといった、問題を解決するための道具として考えていた。しかし、最近では多くの人が指摘しているように、コンピューターは自己を表現するための表現手段になりつつある。これからは、その方向でコンピューターを捉えていく部分が増加していくだろう。その辺が社会的コンセンサスを得ているかどうかは分からないが、ある意味で自己表現の道具としての使い方が、社会の中で広がっているのは事実である。 もう一方では、メモリー容量 が飛躍的に拡大したとか計算機のスピードが速くなったという技術的な要因がある。計算機が安くなり計算量 が豊富になってくると、上で述べたような事が現実に可能になってくる。すなわち、社会的なニーズとテクノロジーの進歩が両輪相まっているように思う。そして、従来は単独で動いていた計算機がネットワークでつながり始めたという状況により、アイデアとしては70年代からあったものが、もう一度ニーズがあるという事で見直されて、もう少し真面 目に研究したらどうかという風潮になりつつあるのが現実ではないかと思う。ハードウェアやソフトウェアの進歩もあるが、社会的な反響がある意味で変わってきたという感じがする。 2.エージェントが持つ意味前段で説明されたエージェントの話をさかのぼっていくと、70年代の人工知能の開発に辿り着く。その当時は、人工知能は人間を代替し、契約から入札、交渉までやってくれるものを想定していた。エキスパートシステムは人間に代替していくんだというコンセプトがアメリカにはあって、その目標を目指して進んでいった。ところが、80年代に入ると人工知能の開発は行き詰まってしまった。現行のコンピューターシステムの読み方には限界があって、人間と同じような判断力は余り期待できない。ただ、色々な情報を演繹体験の中に機能的に流し込んでやれば、整理して表現することはできるという認識に変わってきた。こうした経緯から、コンピューターの限界を踏まえて判断するのは人間でいこうというコンセブトが80年代半ばに出てきた。これがヨーロッパで言っているヒューマン・センタードという考え方である。あくまで人間が中心であって、コンピューターは人間をサポートするシステムであるという位 置づけである。この考えの背景には、たしかに人工知能の開発が行き詰まってしまったという面 と、もう一方で、人間をそこまで駄目にしていいのかという考えがあるように思う。ただでさえ失業率が高いヨーロッパの現状を考えれば、そこには学問的に何かを追求していくというよりは、むしろ労働者の今までの職域を守るといった意識が暗に込められているようにも見える。 そういう意味では、ヨーロッパ流の人間中心という考え方は、一種の保守反動であると言える。神に代わって人間が中心になるのは近代になってからである。それに押し込めてコンピューターの概念を決めつけてしまうことが本当に正しいかどうか、あるいはその本来の可能性を否定することにならないかという問題がある。 このことを先に話されたエージェントで考えてみると、エージェントは人間の欲求があって、人間のかわりに何かをしてくれる召し使いである。電子メールや会議のスケジューリング等の水準であれば、人間が主体でコンピューターが人間の欲求を実現する道具であると考えることができる。しかし、エージェントが進化していくと、それ自身がある意志を持って動いていくような一種の人工的な空間を作り出す。つまり、コンピューターはエージェントを作るのではなくて、ある種の仮想的な空間の中に新しい生命体を作り出すのであって、そこに新しい可能性が見えてきたということだと思う。そうすると、人間にとってオブジェクトであったコンピューターが、人間の関知し得ない所でサブジェクトになり得るということである。エージェントという言葉は、他分に自己規制しているところがあって、基本的には人間より賢くない、あるいは自分のイマジネーションを越えたものはやらないという意味を暗に与えることによって、エージェントという言葉から社会的批判を受けないようにしているようにも考えられる。 しかし、新しい可能性に対して、あるいは新しいフロンティアを開拓しようとする仕事に対して、これまでの考え方のように、コンピューターや機械が全て豊かで快適な人間生活を保障するための道具でなければならないと規定するのは、人間の側だけから見たある種の傲慢というか身勝手な考え方のようにも見える。それよりも、ここに開けつつある世界が何を意味するのか、この可能性をどこまで推し進めてみる事ができるのかというように考える方が、より人間的であるようにも思う。 エージェントが自立して、場合によっては人間を支配するかもしれないという話で思い出すのは、旧約聖書の話である。その中で、神様は天地を創造して6日目に、神の姿に似せて人間を創られた。そのような関係から人間は神のエージェントであると捉えられてきたし、神の栄光のためあるいはそれを信じて人間は2000年ぐらいの間生きてきた。ところがその人間が、個人主義とかあるいは自我の解放ということで、ある時に自立して、やがて19世紀になると神を殺してしまった。神のエージェントであったはずの人間が、神を自ら壊してしまった。その意味で、人間もかつてはエージェントであったわけで、人間がサブジェクトであると自覚したのは近々19世紀以降のことである。したがって、エージェントとしての本質を持った人間が、今、自分の姿に似せて世界を形づくるのは極めて自然なことかもしれない。人間のエージェントとして作られたソフトウェアが、人間を道具として使うことがあるかもしれない。つまり、エージェントが時としてサブジェクトになることが有り得るかもしれない。これはソフトウェアの技術的な話というよりは、かなり哲学的な話である。 この辺を情報化で最先端を走っているといわれるアメリカはどのように考えているのであろうか。基本的には、アービン・トフラーが言うところの第3の波はますます信奉者を増やしている。しかし、この“第3の波”は、近代の中での第3の波だという捉え方もできるのではないか。農業、工業、情報というのは、産業における1次産業、2次産業、3次産業であって、人類の歴史としての第3段階とか第4段階では多分ない。近代という限界の中でその可能性を広げようとしてはいるが、近代を超えるものではない。 この点について少し違う視点から説明を加えると、近代の第一段階は、人間が人間を支配する技術を錬磨した時代だと思う。つまり、軍隊を作り組織を作って、色々な意味で個人をエージェントにしてしまった。これはいけないということで、人権を持ちだして来て支配されない権利があると言ってみたり、国民主権ということで支配している方が逆に支配しようとすることをやってみたが、今日に至るまで民主主義とは何であるのか、あるいは人権とは何であるのかという十分な答えは出ていない。 第二段階は産業化で、人間を支配するよりは、自然を搾取し支配した方が人間を支配するよりましだという事に気づいて、工業的に物を大量 生産で作ったり、時間を管理するようになった。しかし、それも進めすぎたために、今度は環境から反撃を受けることになった。環境を征服できるという考えは、その考えもまた大きな間違いである事をしらされた。ある意味で環境問題による壁に阻まれて、逆に環境を守るという意識で人間の生活を管理しなければならなくなった。 第三段階の情報化は、第一、第二段階の限界から出てきた。物の世界を支配しようと考えたのは確かに傲慢であったが、観念の世界であれば大丈夫だろうということで、この流れが出てきたようにも考えられる。この世界は今開き始めたばかりで、50年や100年はいろいろやっても耐えられるだろう。しかし、結局は人間は生き物であり、現実の世界からは離れられない。いずれはまた復讐されることになるかもしれないが、それは今の問題ではなくかなり先の事だと思う。今の時点で将来の事をあれこれ言って、その否定的面 を強調するのは、産業化社会の初期に起こった、労働者が自分達の職が奪われると考えて行ったダダイト(機械打ち壊し運動)と同じようなものでしかない。たしかに、もっと先には本当に問題があるかもしれないが、当面 は、今広がりつつある第三フロンティアに突き進んでいって、その社会的に意味するものを探ることにあるのではないか。人間が他のものを規定してその可能性を否定してしまうことは、人間自身の限界を自らが作ることになる。未知なるフロンティアを求めていくところに、人間の可能性もまた広がるように思う。ここで話されたオブジェクトの技術は、それが近代の一部であるかどうかは議論の余地はあるが、そういうある種の可能性を開いてくれる何物かである。 −おことわり− |
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