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1996年2月号

酸性雨外交と温暖化対策の総合研究を

三菱化学生命科学研究所
社会生命科学研究室室長
米本昌平


 1995年8月下旬ソウルは記録的な大雨に見舞われたが、ちょうどその時、この地で東アジア地域から大気問題に関わる17のNGO(非政府組織)が集まって、「東アジア大気行動ネットワーク」が結成された。小さな集まりであったが、そこには晴れがましい雰囲気が漂っていた。

 アジア地域が世界経済における一大成長センターとなりつつある一方で、大気汚染が更に進行し、二酸化炭素の排出も急増しており、地球環境問題の観点からも早いうちに対策を打っておく必要がある。しかし他方で、この地域のNGOはまだ未成熟で力が弱い。そこで東アジアのNGOが国境を越えて弱点を補い合う目的で、このネットワークが結成された。既に地球温暖化問題では、世界各地に「気候変動ネットワーク」というNGOの連合組織が出来ているが、東アジアではこれに見合う組織が今までなかったことから、この新しいネットワークはその機能も担うことになる。

 しかし、実際に各国のNGOが集まってみると、この地域の複雑な歴史的事情を反映して、それぞれの国の政治経済体制が著しく多様であることが判明した。列挙してみると、準先進国の韓国・台湾・香港、巨大途上国で社会主義経済の中国、自由経済移行中の先進国・極東ロシアと途上国モンゴル、そして参加しなかった北朝鮮がある。冷戦後の今、考えうるあらゆるタイプの国が集まっているのが東アジア地域だと言ってよく、それにOECDのジャイアント日本が加わる形になるのである。

 これだけ国のタイプが異なれば、各国の環境問題に対する考え方にも、実際の対応にも、大きな開きがあって当然である。話し合ってみてすぐ見えてきたことは、日本以外の国にとって大気問題とは、排気ガス汚染公害のことであり、地球温暖化は辛うじて視野の端に掛かっているにすぎない。これだけ大気問題で意識の高いNGOが集まっても、彼らにとってとりあえず重要なのは、喘息を煩う乳幼児の増加であり、国境を越えた酸性雨問題までである。地球温暖化問題は先進国がまず率先して取り組むべき問題であることが別 の意味でよく判った。従って、このネットワークの機能のうち地球温暖化の部分は、実力に関係なく日本のNGOが引き受けざるをえない格好になる。と同時に、日本はアジアの環境問題で貢献すべきだという国内でよく聞かれる威勢のいい主張には、この社会的価値の違いが織り込まれているのかいささか心配になってくる。

 例えば、中国から酸性雨の原因物質が飛んできているので、中国の大気汚染対策に日本が資金と技術を提供すべきだ、という議論がよく聞かれる。しかし、環境保全への投資順位 は、経済の発展段階によって特に厳しく揺れる社会的価値である。東アジアで国のタイプがこれだけ多様であることは、それだけ各国が考える公的投資の優先順位 にばらつきがあることを意味する。中国政府にとって、国内に深刻な大気汚染問題を抱えててることを認めることと、酸性雨対策で日本から資金を受け入れることとは別 問題なのである。

 酸性雨問題の国際交渉については、ヨーロッパに長距離越境大気汚染条約を軸とした長い歴史がある。われわれはその歴史を詳しく知る必要がある。勿論その理由の一つは、近い将来日本が東アジアで酸性雨の国際交渉を始めなければならないからだが、もう一つの理由として、欧州連合(EU)が気候変動枠組み条約の場に、自分たちが酸性雨交渉で培ってきた排出削減の考え方を持ち出してくる可能性が高いからである。

 かつて、欧州諸国がドイツやイギリスに向かって酸性雨被害の証拠を付きつけても、それだけでは何も進展しなかった。その体験からすると、まずは関係国に有無を言わせないだけの科学的データの集積が不可欠である。欧州の場合、その全域をカバーする共通 のモニタリング体制を完成させたことが決定的に重要であった。今の日本と中国の関係を欧州の歴史に当てはめると、共通 の観測体制がまだ出来ていなかった70年代初めの状況に近い。東アジア全域をカバーする科学的インフラを整備できるのは実質上日本だけであるから、日本はまず頭を下げて東アジア一帯に同一規格の観測網を設置させてもらい、共同研究体制を築くことを考えなければならない。これによって、中国から原因物質が飛来し深刻な被害を及ぼしていることが確実になれば、その時点で初めて外交交渉の場にのることになる。

 だがこれだけの条件を整えても、中国にとって大気汚染対策の政策順位 はまだ低いかもしれない。その時に、中国に働きかけるための論理も日本側は用意しておく必要がある。例えば中国に対して、日本が公害問題で犯したことと同じ道を歩むべきではないと主張することである。そして、ここで地球温暖化問題が出てくる。最近の温暖化交渉の場では、硫黄酸化物粒子の冷却効果 と温暖化問題との関係が論じられ始めており、そこで途上国ではあまり現実感のない温暖化対策と酸性雨対策とが連動してくる。

 結局、日本が東アジアの大気問題で貢献するということは、広域の酸性雨問題と地球温暖化対策とを同時に視野に入れながら、共通 の観測研究網を築き上げ、その上で多様な価値の社会に住む人達に向かってこちら側が考える対応策を示し、話し合いを始めることである。はっきり言って、これが日本の国益となるためには、総合的な地域研究と政策研究が必要なのだが、日本でのこの領域は恐ろしい程手薄である。これこそ最近力説される戦略的研究の典型であり、日本の研究の総合力が問われる時なのである。