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1997年2月号

日本の「騒音」文化

大阪大学経済学部長
猪木 武徳


 人口問題も環境問題も、そして食糧問題も、これからの人類にとって決定的に重要だという点には私も異論がない。しかし、こうした地球的規模の自然の力を相手とした問題には、何らかの自動調節機能が働くはずだと思っているから、私はそう悲観はしていない。もちろん、問題を放置しておけばよいというわけではないが、人間が意識的な努力を重ねていけば、それなりの解決は可能だと考えている。

 人口・環境・食糧と一気に地球的規模の大問題に飛躍する前に、日常生活の中で考え直すべき「人間相手の環境問題」も重要ではないかとよく思う。不快感を与えるような色彩 の建物、見苦しい看板など誰でも思いつくが、私がしばしば腹立たしく思うのは、都市に氾濫する無神経な騒音である。これはすでにしばしば指摘されている問題ではあるが、改めて考えてみたい。

 騒音といってもいろいろあるが、第一に気になるのは、公共の交通 機関やレストランにおける大声の会話である。聞きたくない無意味な(私にとって)話を無理矢理聞かされるのはなんとも苦痛である。「野蛮な人達だ」と無視しようとしても、こちらがイラ立てばイラ立つほど、その大声を聞き取ってしまう。日本人の場合、とくに集団になると、こうした傍若無人な行動がひどくなるように感じるのは私の偏見だろうか。

 酒は楽しく、食事は語り合いながら、というのは当然だが、常軌を逸した騒ぎぶりを見ると、ついつい文句も言いたくなる。

 第二は日本の選挙運動である。駅前広場などの公共的な場所で候補者が所信を開陳するのはまだしも、住宅地などを所かまわずスピーカーを使いながら車で走りまわるというのは一体どのような神経なのだろうか。一部の政治団体が使うモノモノしい装甲車のオンパレードなどは論外である。

 さらに、公共の場所での音声による「指示」が多すぎやしないか。「列車が来ます。白線まで下がって下さい。」などはその代表例であろう。たしかに、目の不自由な人への配慮は大切である。しかし、目の不自由な人には「白線の」位 置は見えないのだから、こうした注意の仕方は不適切である。障害のある人へのさりげない配慮は、別 の仕方でできるはずだ。そして、健常者は、もっと自分の力で身を守るべきであろう。

 いわゆる「騒音」だけが、不快であるとは限らない。もうひとつ筆者のわがままを言わせてもらうと、あの地下鉄などに流される鳥の鳴き声も、なんとなく落ちつかない。あんな雑踏の中にウグイスがいるわけないし、ホオジロが飛んでいるはずがない。あの不自然さは、人に本当の安らぎを与えてはくれない。駅は駅らしく、ザワザワとしているほうがよい。

 こう書き連ねると、自分が気むずかしく神経質な老人のように思えてくる。しかし、音に対して、もっと配慮があってもいいのではないか、と私は言いたい。たしかに「騒音」に対しては、いくつかの訴訟に発展するような事件はあった。大阪空港公害、名古屋新幹線騒音、横田基地、厚木基地などいくつかの騒音公害訴訟が思い出される。しかし、これらの例は、極端な騒音被害が、公共性や利害関係をめぐって争われたものである。私がここで取り上げた騒音は、こうした例に比べるとまことに瑣末なものに見えるかもしれない。

 しかし、瑣末なことがらも、人間の生活基盤を危うくすることがある。というのは、「静けさ」というのは、人間の精神が欲する浄化剤のような役割を果 たしていると考えられるからだ。それはちょうど音楽と沈黙の関係に似ている。音楽は音の連なりから構成されているが、実は「音が鳴らない」という沈黙も重要な音楽の構成物なのだ。

 経済発展の途上にある国々の大都市を訪れると、その生き生きとした喧騒に驚かされることが多い。逆にヨーロッパの小国の都市を歩くと、一体人々はどこに隠れてしまったのかと思うほど静かで、生活のにおいが消え去ってしまっている。それはちょうど、若い人々が落ち着きがなく騒がしいのに対して、老齢者が静かで内向的になるのと似ている。

 それぞれの国や地域が、音に対する独自の感受性を持っていることは確かである。その美しい表われが音楽文化となる。逆に騒音は「負の音楽」とも呼ぶべき文化の一つの姿なのかもしれない。そういう意味では、騒音も文化の一部として、おおらかに受容すべきなのかもしれない。しかし、騒音が、ストレスによる疾患として、消化性潰瘍や心臓病の原因となることがわかっている以上、これはもう人口・食糧・環境問題と同じくらい人類にとって重要な問題として受け止めなければならないのではないだろうか。