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1997年2月号

グローバル化をめぐって

「企業のグローバル化と国家・社会のあり方を考える」研究委員会終わる。


 96年1月に始まった「企業のグローバル化と国家・社会のあり方を考える」研究委員会は、昨年12月に第12回の委員会をもって終了した。委員の発表13、外部講師の発表7、計20題の講演とそれに基づく活発な議論があった。その結果 は、97年3月末完成予定の報告書にまとめられる(現在報告書原稿執筆依頼中)。委員長、委員ならびにお忙しいところ有益な講演をしてくださった講師各位 にあらためてお礼を申し上げたい。

 本稿では、ここ一年間の委員会を振り返って、グローバリゼーションの持ついくつかの側面 について述べてみたい。

多国籍企業とグローバル企業

 多国籍企業とは、国連“World Investment Report”によれば「2ケ国以上の国において資産を所有する企業」である。同報告書によると、現在世界全体で38,000社以上の多国籍企業が存在しており、このうち先進諸国を母国とする企業が約、9割を占めている。

 特に、日本企業は3,650社(全体の9.5%)であり、ドイツの7,003社(同18.2%)に次いで、企業数では世界第2位 となっている。また、海外資産額からみた上位100社について見ても、アメリカの31社についで日本企業は21社となっており、日本は多国籍企業が非常に多い国であるといえる。

 多国籍企業は、20万を越える海外子会社をコントロールし、世界中で7,300万人以上の雇用を実現しているといわれている。

 一方、グローバル企業とは何か、というと多国籍企業の場合と違ってはっきりした定義がない。それでは多国籍企業とグローバル企業はどう違うか、それに関する議論は古くからある。よく引用されるのは、企業経営研究の大御所であるマイケル・ポーターの「多国籍企業は企業活動をいくつかの国にまたがっておこなっているがその諸活動を企業の経営戦略とリンクさせようという度合いが全然無い、もしくは非常に低い企業である。一方、グローバル企業とは、それぞれの国での経営が全体的に調和をもって運営されることにより、統一された経営戦略をもつ企業である」という定義である。一般 に海外子会社を設立する場合、本社の経営戦略にもとづいて経営資源が投入され、本社のコントロールのもとに経営上の意思決定が行われることが普通 であることを考えると、国連の定義した多国籍企業はそのままポーターのいうグローバル企業にあてはまるということになる。

 しかしながら大前研一のように、グローバル企業は国境を越えて活動するがゆえに母国のアイデンティティがなくなった企業である、とする見方もある。脱国家企業であるグローバル企業は、より低いコストを追及し、消費者のニーズにこたえるために存在し、その活動基盤がどの国にあっても問題ではない。かえって国家の存在はグローバル企業の活動遂行の妨げになりうる、とグローバル企業と国家を対比させている。

 これはP・D・ロビンソンのいう「株式所有の多国籍分散、経営の国籍・民族を越えた無差別 化、世界市場を一体とした資源の調達・運用」を行う段階に達した超国籍企業 ( Transnational Company ) の考え方に近いといえる。超国籍企業は多国籍企業が進歩したという企業形態、とロビンソンは位 置づけているが、現状はこのような企業が少しずつ実体を持ち始めた局面 ということができよう。

 さらには、グローバル企業は狭義の利益追及団体という範疇をこえ、次の時代の世界経済秩序について責任を共有して、国境を越えた世界全体の課題について積極的に参画すべき存在、と位 置付ける考え方もある2)。ここまでくるとグローバリゼーションを「金儲けのための新たな機会」とか「経営基盤の比較的優位 を維持するための海外事業展開を促すトレンド」くらいにしか理解していない日本の「グローバル企業」の企業人は、ついていけないというのが本音ではなかろうか。

 国家とグローバル企業を対比させる議論としては元米国労働長官、ロバート・ライシュのように、どこの国に本社があっても構わない、とにかく米国内で利益を上げ、米国政府、機関に納税し、米国民を雇用してくれる企業は米国企業である ( Who is US. R. Reich 1990 ) 、といった意見もある。ここでは国家の下でのアイデンティティが重要であって、多国籍企業とかグローバル企業がなんであるかということは、あまり意味がない。

日本人はグローバル化しているか

 ライシュは、米国で操業し、米国に貢献している企業は米国企業であるといい切っている。彼の念頭に、米国に進出した日本の自動車産業をがあったのは確かである。実はその自動車産業を含む日本の大企業の幹部何人かに、「御社はグローバル企業でしょうか」という質問をしたことがある。ほとんどの答えは、とても自分の会社はグローバル企業とはいえないとのことだった。その中の一人はこういったものだ。「みんな本社の方に顔をむけて仕事していて何がグローバル企業ですか。大体日本人はサラリーマンも学者も新聞記者もみんな早く日本に帰って温泉に漬かって、サシミでも食べたいと思っているんです。」

 こうなると、企業、国家、社会を構成する日本国民のグローバル度はどういったものか知りたくなる。

 日本人の心のうちのグローバル度をはかるのは難しいので、まず外国へ行く場合必要とされる英語力について見てみたい。平成7年のNHK外国語教材の発行状況をみると、ラジオ、テレビあわせて英語が420万部とドイツ語、フランス語の28万部を大きく引き離している(ちなみにあとは中国語25万部、スペイン語18万部、イタリア語、ハングル、16万部、ロシア語12万部となっている)。また語学教材、語学学校についての電車の吊り広告、テレビCMの氾濫をみても英語能力修得のニーズは非常に高く、実際に英会話を学習している人の数は多い。日本人の英語力は、グローバル化経済の進展に応じて高くなっているのだろうか。

 そこで、非英語圏からアメリカ、イギリス等へ留学を希望するひとが受験する英語能力検定試験であるTOEFLの点数をみてみると、他のアジア諸国は上昇しているが、日本は横這いで推移しているため、1960年代には中位 にあったにもかかわらず、90年代にはいると調査した8ケ国中、ビリを争う低い成績になっている。

 また、内訳をみても、日本は「語彙と読み取り能力」、「構成と書き取り能力」、「聞き取り能力」とも各国に比べて低くなっている。よく、日本人の英語力は「読めるが話せない」といわれているが、読む能力も充分でないことがわかる。

 残念ながら30年以上前から日本人の英語力はたいしたことはない、ということを統計は示している。しかしながらこれをもって日本人のグローバル化への対応が遅れているとはいえない。

 大学の国際関係学部の入学定員数の推移をみると、85年には外国語学部を中心に約7,000名であったが、ここ数年、外国語学部以外の新しい国際関係学部(国際経済学部、国際文化学部、国際言語学部、国際政治経済学部など)の創設が相次いでおり、それらの学部全体の入学定員は、現在、約2万人と10年間で約3倍の伸びとなっている。また、高等学校で外国語関係の学科に学ぶ生徒数も増加しており、85年度の7,000人弱から95年度では、18,000人以上になっている。

 留学等(留学、研修、技術修得)で日本を出国する人は年々増加しており、86年に約36,000人であったものが95年には165,000人と4.5倍に増えている。留学先もアメリカ中心からオーストラリア、カナダ、イギリス、中国と多様化しており、現在は留学先の半分程度がアメリカとなっている3)。

 さらに注目すべきは、日本の海外旅行者数の推移である。95年度の1,530万人の数字は85年度の3倍、75年度の6倍、65年度の実に96倍にあたる。

 貿易の拡大や80年代後半からの海外直接投資の本格化は、経済活動のグローバリゼーションを促進した。それはまた、その担い手である国民の活動や生活のグローバル化を必然的にもたらした。国民の生活水準の向上、円高により外国製品が身の周りに溢れており、情報通 信の地球規模での拡大は国民一人一人の海外への関心をいやがうえにも高めている。インターネットもその活動のグローバル化を容易にする新しい手段を提供している。

 ヒト、モノ、カネ、企業、情報、そして犯罪のボーダレス化は否応なく進展するであろう。少なくともヒトの動きはその方向を示している。好むと好まざるにかかわらず、企業、個人を問わず日本はグローバル化のうねりにのっていかざるを得ない。先述の企業幹部の一人はこのグローバル化のうねりを認めたあとでこう言っている。「日本人のアイデンティティを保持しながらも国境を越えた価値観を共有できる世代が育ってきている。企業経営に従事する人達の多くがそういう日本人に変わっていくとき、日本企業も地球的に時代を認識し、世界経済の責任を引き受けるグローバル企業に変わっていくのだろう」と。

 日本と地球の明るい未来を信じていきたいものである。

(事務局 中西英樹)

参考文献
(1)Edward M. Graham Global Corporations and National Governments, 1996
(2) 寺島実郎;国家の論理と企業の論理、中央公論、1997年2月号
(3) 経済企画庁編;21世紀世界経済委員会資料
(4) 経済企画庁編;国民生活白書、平成8年版