ニュースレター
メニューに戻る


1997年5月号

千載の知己が20世紀末を観るとどうなるか

国際基督教大学教授・国際関係学科長
鈴木 典比古


 バブル経済が崩壊して以来、世論は全てに悲観的で、そのかまびすしさのトーンたるや自己制御不能と思えるほどだ。また、そのかまびすしさに乗っていれば安心、といった風潮すらある。こうなってくると神経過敏なのか無神経なのかわからなくなる。

 しかし、目前の困難に立ち向かっている当事者達にとっては、これが初体験(歴史の最前線で起きる物事は全て初体験)なのだから、ことを必要以上に重大視しがちなのはうなづける。また、その深刻さは、日々報じられるように文字通 り深刻なのであろう。筆者だって企業経営の研究者の端くれだから、それくらいのことは分かっている。しかし筆者にはひねくれた面 もあって、「国民一人当たり年間所得世界一、平均寿命世界一、社会安心度世界一(恐らく)で人口のかなりの部分が食いすぎでコレストロール過多(筆者もその一人)に悩む国が、世界の幾億という貧困と飢餓寸前の人々に対して、自分は大変だ大変だ、と真顔で言えるのか。」という思いも深い。世界は全て相対的なものだ。日本の喧騒など、世界のあらかたの国々にとっては、何ともいまいましい贅沢事としか映らぬ だろう。筆者のシニシズムも、しかしながら、あえて自己弁護させてもらえば、単に人の悪さに起因しているのではない。これでも真摯な教育者でもあるから、一理あってのことなのだ。そのことを述べよう。それは現今の問題の直接的解決には何ら資するものではなかろうが、熱迫した頭を冷やすほどの効果 はあるだろう。

 筆者はよく学生に「第一に古典を読め」と指導している。経営学者が「古典を読め」というのも妙だが、まことに21世紀を生きる若者を導くのに、千年も二千年も前の遠い先人が考えた知恵や教訓を学べ、というのだから時代錯誤もはなはだしいともきこえよう。今はそれどころではない。コンピューター革命あり、グローバリゼーションあり、世界環境問題あり、宇宙規模の資源問題あり、遺伝子工学あり、その他諸々、大昔のことなどかまっていられぬ というものであろう。しかし、ここで少し見方を変えてみよう。例えば人類がこれからも生存し続けるとして、紀元三千年、つまり今から千年後の人達が、歴史として千年前の紀元二千年である現在を観る場合、何をそこにこの時代の特徴として認めるであろうか。コンピューターの爆発的進歩か、マルチメディアの進展か、遺伝子工学の発達か、または冷戦の終結か、日本のバブル経済の狂乱か。これらの出来事は、恐らく何らかの方法(例えば電子年鑑)で千年後にも詳細な記録として伝えられるだろう。したがって、歴史上の出来事をこつこつ研究するタイプの千年後の実証主義歴史家は学問的好奇心からこれらの事象に関心を示すかもしれない。だが、千年後のコンピューター技術の水準、遺伝子工学の水準、宇宙知識の水準というのは、我々の想像を絶した高さに達していようから、その水準からすると今のコンピューターや遺伝子工学、宇宙の知識等はまるで原始的なものにすぎず、全くつまらぬ ものとして捨てられてしまうだろう。それは丁度、我々が千年前の歴史上のあれこれに全く無関心でいることと同じである。当時の人々にとって、これこそ人生や社会や国家の一大事だと思われた事が今の我々にとって益体もない事と思えるのと同じである。それに人間の歴史をトータルに鳥瞰視しようとすれば、歴史を貫いて流れる本質的動向を見極めねばならぬ が、そのためには歴史の抽象度を高める必要がある。その時代がいかなる時代であったかを特徴づけるためには枝葉のことは大概切り捨て、幹の部分だけを取り出して見なければならない。したがって、一体、千年後の歴史家達にとって、今世の中の人々が口角泡をとばして、喧々囂々議論している事柄は枝葉なのか幹なのか問わねばなるまい。恐らく毎日の一喜一憂に我々を駆りたててやまないジャーナリズムや、我々が重要だと信じて書く学術論文等も、そのほとんどは全く枝葉のものな筈であり、千年後には全く痕跡をとどめていないであろう。これが二千年、五千年後の歴史家からみた紀元二千年頃の特徴といったら、なおさら歴史の抽象度は上がる筈だから今日我々が真理だと思い込んでいるものは、五千年後にはほとんど何も残っていないだろう。ましてや今日の我々の身辺の事柄など五千年後の歴史に残る筈がない。そのようなうたかたの事柄の中にバブル経済後の日本の悩みも入るのである。

 恐らく五千年後にも残っているものがあるとすれば、それは千年前、二千年前にあったもので今日でも我々の中に残っているものがそのまま今後も続けて生きのび千年後、二千年後、五千年後にも残るという類のものだと思われる。だからここで「古典を学べ」ということが未だに正当化されるわけだ。否、今だからこそなおさら正当化される。すなわち、幾千年をかけて生きのびてきた古典をここで我々の世代が学ぶことを放棄してしまったら、千年も二千年も続いてきた歴史的知恵や考え方が、今後二千年、五千年後の後世代に伝わらなくなってしまう。そうなってしまったら、我々は人類の歴史にミッシング・リンクをつくってしまうという汚名をかぶることになるのだ。こう考えてくると、我々の責任は重い。さて、数千年を耐えて我々に伝えられてきた知恵といっても、それは何も特別 のものではなかろう。それは「人を愛する」、とか「他人に迷惑をかけない」とか、人類生存のための最低限の戒めの筈だ。この戒めが次代を託する若者に素直に受け入れられるような社会を創って譲り渡していくことこそ我々の責務である。バブル崩壊後のこの沈んだ世相が、今人生をまさに始めようとしている若者達にそのまま人生観として刷り込まれることのないようにしなければならぬ 。現在の困難があるのは君たちのせいではない。それは今まで日本の世事に当たってきた大人の責任だ。そのとばっちりを受けて君たちまでしめっぽくなる必要はない。大人達のしめっぽい話に引きずられて、うたかたの世事を嘆くようでは、歴史上のミッシング・リンクを作ってしまう。