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1998年4月号

OPINION

「リフォルムシュタゥ(改革渋滞)」

-早すぎる反規制緩和論と反市場主義の台頭-

日本経済新聞社取締役論説主幹 小島明


 司馬遷の「史記列伝」のなかに、国家の経済運営原理を論じた「貨殖列伝」がある。いつだったか、読み返しているとき、大変興味深いくだりが目にとまった。

 「すぐれた政治家は(人民の生活の)ありかたのままにしておく。それに次ぐ人は人民に教えさとす。そのまた次は何とか調整していこうとする。いちばん劣った政治家が民と利益を争うものなのだ」(岩波文庫、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳「史記列伝」(5)、151ページ)。

 つまり、最善の政治家は、国民が持っている個性、能力が自由に発揮できるようにさせ、それを押え込もうとはしない(規制なし)、次善の政治家はアドバイスは与えるが、権力で強制しようとはしないというわけである。それ以下は"悪い」政治家であり、調整といって何かと介入、規制しようとし、さらに"民と利益を争う#民業圧迫となると「最悪」となる。日本の場合、政治改革といっても選挙制度改革が行われただけで、政策の決定から執行、さらには法案の作成から法の執行、および本来は司法の役割であるべき法の解釈にいたるまで、多くの場合、行政、つまり官僚が独占している。したがって、"列伝"にある"政治家"は、日本においては"政府" (より正確には行政府) と読みかえた方が現実的だろう。

 この話を、ピーター・ドラッカー氏にしたところ、ご本人は大変興味を示しながら、直ちにこう付け加えた。"そのどれよりも悪い政府がある。それは金がかかり、かつ無能な政府だ」。どうやら米国の大きな政府について言ったようである。ただ、米国ではこの10余年間で政府部門でも民間企業の経営の分野でも様々な改革、リストラが行われ、経済・産業も活力を復活した。ドラッカー氏自身、その米国にも所得格差の拡大など"社会的な問題の深刻化」も進行しているが、こと経済の活力という点では、復活は明らかである。

 明治維新から約130年。途中、敗戦による中断はあったが、日本経済の発展は今世紀の成功物語となろう。同じく敗戦を経験したドイツの経済発展もそうだろう。ところが、今世紀の最後の10年において、両国とも深刻な経済停滞に直面 している。2月末に東京で"日独フォーラム"が開かれた。そこでドイツ側の参加者が"ドイツに今日的な流行語はリフォルムシュタウ(Reformstau)だ"と発言した。つまり"改革の遅れ"である。

 日本でも"改革"が盛んに議論されている。今年3年目にはいり、55年体制崩壊後では長期政権になりつつある橋本政権は"改革政権"となろうとしている。それは、時代の要請でもある。ただ、問題は日本においてもリフォルムシュタウが発生していることだ。

 手元にある"規制緩和白書(97年版)"をみて驚くのは、その膨大さである。きわめて細かい活字でビッチリ埋められた表が300ページも続く。総務庁が1985年以来11回にわたって行ってきた許認可等 実態調査の結果をみても、規制緩和が公式には進められてきたとされているのに近年は逆に件数が増加さえしている。それに、法律、政令、省令および告示において使われている"規制"のカテゴリーには、以下のように20以上も種類がある。

 つまり、許可、認可、免許、特許、承認、認定、確認、免除、決定、証明、認証、解除、公認、検定、検認、試験、検査、指定、登録、届出、申告、提出、報告、交付などなど、である。

 許認可の件数は、数え方次第という面もある。件数にもまして重要なのは、個々の規制の内容であり、さらにそれがどの程度まで明示的であり透明性のあるものなのかという点であろう。上記の20余の用語の定義は、それなりに存在するのだろうが、規制を受けるものの立場からすれば理解不能であり、結局、ことこまかく当局にお伺いをたてなければならないということになろう。当局は、特に明示的な定義をせず、きわめて裁量 的な行政をしていたほうが便利である。"便利"というのは、その裁量性のゆえに権力が確保でき(その結果 、接待づけの行政カルチャーにもなったわけである)、明示的でないことによって行政側はだれも責任をとらないですむからである。責任問題はしばしば国会等でもとりあげられるが、実際に責任をとる例は極めて少ない。

 そうした状況を変えるためにも規制を減らし、残る規制の透明性を確保し、裁量 行政をなくす必要がある。それなしには、健全な自由市場経済も健全な民主主義も根づかない。人々が充分な情報にアクセスできることにより、自己責任をもった市場と個人が生まれるし、行政の透明性を高めることにより行政の自己規律が確保される。

 しかし、実際の規制緩和が進んでいない段階で、行政などから"規制のコスト" "市場の失敗"を協調した議論が噴出している。規制だらけで市場の体をなしていない市場は、失敗の自由もない。失敗は多くの場合、市場のそれではなく、政策の失敗であり、規制の失敗である。

 規制緩和は万能薬ではないと言われる。その通 りである。だが、規制緩和(時代にあった規制の組立て直しも含め)なしには、他の様々な政策、施策の効果 も制約されることも事実である。規制緩和、市場経済は"日本の心を捨てることだ"といった議論があるが、それは問題のすり替えである。単に"何もしたくない" "既得権を捨てたくない"とする者の隠れ蓑である。市場のもつ潜在的なパワーをいかに活かすかが、いまの日本の課題ではないか。