山火事は国家主権にとって煉獄の火となるか
-ASEANへの延焼と再生の可能性 -
東京大学・大学院総合文化研究科教授
山影 進
米国で名前をヤマカジと呼ばれることが多かったせいで(?)山火事には殊の外関心がある。山火事は人間の生活史に様々な影響を及ぼしてきた。近年東南アジア島嶼部を中心に頻繁に発生してきた山火事は、エルニーニョ現象がもたらしたと言われる少雨に祟られ、さらには地上の樹木だけでなく泥炭層にまで燃え移ったため、人間の力では制御不能になってしまった。野性動植物への被害はもちろん、人間の健康へも甚大な影響を広域にわたって及ぼした。
この山火事は国際問題にまで「飛び火」した。インドネシア領で発生した山火事の煙が風に運ばれて、マレーシアやシンガポールの人々や政府にとって見逃すことのできない被害を引き起こしたからである。英語ではヘイズと呼ばれたが、靄(もや)とか、霞(かすみ)などという生易しいものではない。晩秋の日本の農村で脱穀した稲藁を燃やしている場面
に出くわしたことのある人なら容易に想像できるだろうが、あちこちで焼くために、あたり一面
がかすんで遠くが見えなくなり、きなくさい臭いが鼻をつき、ときには涙が出てむせぶ。そんな状態が昼夜を問わず何週間も続くのである。まさに、煙害である。喘息や眼病などに苦しむ人々を抱えた各国政府はインドネシア政府に抗議した。山火事は単なる焼き畑農法の一過程ではなく、組織的なプランテーション開発の一環であり、しかも官憲の目を盗んで(あるいは彼らと結託して)大規模に行われたからである。スハルト大統領に近い業者の手によるものであることは公然の秘密として語られた。
インドネシアに対する抗議はついにASEANの場にまで持ち出された。ASEANはそもそも東南アジア諸国が善隣友好を追求・確認する場である。各国の内政には干渉しないことが外交関係での友好を可能にする基盤であった。もっと固い言葉で言えば国家主権を相互に尊重し、内政不干渉原則を認め合うことがASEANの相互信頼醸成と対域外団結の前提であった。このようなASEANの30年にわたる伝統を、インドネシアの山火事が脅かしたのである。大げさに言えば、山火事がASEANのこれまでの成果
を灰塵に帰すかも知れなかったのである。しかし事態は逆方向に進展した。自負心の強いスハルト大統領もついにASEAN友邦に謝罪し、インドネシアの山火事はASEANの対立要因から協力課題へと性格を換えた。1997年12月に初会合をもった煙害対策ASEAN閣僚会議は、以来2カ月に1回のペースで開かれている。現在、ASEANの中で最も熱心に協力している分野になったのである。
こうして内政不干渉という17世紀以来の国家主権に結びついた伝統はASEAN諸国の間でさえ時代遅れになりつつある。内政不干渉原則の見直しを迫っているのはインドネシアの山火事だけではない。ミャンマーの政治体制もそうである。ミャンマーでは1988年に総選挙が行われたが、その結果
を認めない軍事政権が支配しつづけてきた。欧米の制裁を求める声に反対して、ASEANは建設的関与という緩やかな内政干渉を主張してきた。97年にミャンマーはASEANに加盟した段階で、大問題が生じた。ミャンマーに対して従来どおりの建設的関与は可能なのか、それともASEAN友邦になったのだから内政干渉すべきではないのか。既存ASEAN諸国の意見は一致を見ていない。同様の問題はカンボジアについても生じており、それが同国のASEAN加盟をめぐって既加盟国の意見が一致しない背景にある。
ミャンマーやカンボジアは所詮新参者である。しかしインドネシアの山火事を契機にした原加盟国どうしの内政不干渉原則の見直しはASEANのあり方に大きな転換を強いるにちがいない。最近のインドネシアやマレーシアの政治混乱に対して、ASEAN友邦の指導者たちは公然と危惧を表明した。他国の国内政治への言及に慎重だったASEANとしては極めて異例だった。しかし、おそらくは、今後これは異例ではなくなるのだ。
世界的な自由化と民主化の流れの中にあって時代遅れになりつつある国家主権の諸原則を、ASEAN諸国もついに自明のものとして前提視できない段階にいたった。山火事の煙とともに、ポスト近代がついにASEANまでをも覆い、見通
しを悪いものにしている。国家主権は昇華するのだろうか。一体、何に。
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