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留学生の教育の現場から
政策研究大学院大学 教授
大来 洋一
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留学生10万人計画というのがある。これは、昭和58、59年に有識者グループが文部省に提言した計画であり、21世紀初頭に10万人の留学生を受け入れることを目指したものである。しかし、留学生の数は、平成6年の5万4千人弱をピークとしてここのところ微減しており、計画の達成は容易ではない。もっとも、大学院での留学生が、学部以下の留学生の減少とは対称的に着実に増加しているし、やがて全体としても増加傾向になろう。
いうまでもないことであるが、わが国に留学した学生が日本についてよい印象を持てば、強力な親善大使が生まれることを意味する。そこまでいかなくても、理解が深まれば、「日本は、不可解な国、危険な国」といった誤解を解く側に回ってくれることが期待できる。
現在私が講義をしている埼玉大学大学院政策科学研究科の留学生の意見を聞いてみても、社交辞令を割り引いても、留学生達は日本にまずまずの好意的印象を持っているように思われる。また、来日して半年や一年の留学生でも、日本の社会や国民性について、かなり的確な理解を持っている。わが国の世界各国との親善に役にたっているといえる。
しかし、受け入れる大学の側ではなかなか苦労が多いし、いくつかのディレンマがある。第1のディレンマは英語で教えるかどうかである。
大学院レベルでは23の国立大学で、留学生のために英語で学位(修士)がとれるコースを開設しているが、完全に英語だけではすまなかったり、入学に際して日本語の試験が課されるところがいくつかある。筆者の勤める埼玉
大学の研究科では、長いこと専ら英語で教育を行ってきたし、それを引き継ぐ形で発足した政策研究大学院大学もこの10月からは、1年で、英語で修士がとれるコースが中心となる。
英語で講義をする時の準備は日本語でやる場合に比べて、数倍の時間がかかる。私は遅い方だとしても、平均的に一人の教官で担当できるコマ数はある程度少なくせざるをえない。それに英語で講義をしてもよいという教官の数は絶対的に不足している。
英語で教育をすれば応募してくる志願者の母集団が大きくなり、優秀な学生を集めやすくなるから、留学生の増加は英語で教育するプログラムの増によることが望ましいのであるが、大学の側の負担との間にはディレンマが存在する。
優秀な学生が集まるほど指導する側は楽であるし、その大学が国際的に知られることにもつながる。しかし、留学生達の入学前の学力は、個人差よりも国による差が大きい。留学生の受け入れを国際協力、外交、人道主義などの観点から考えると、むしろ苦労の多い留学生ほど積極的に受け入れるべきだという考え方も成り立つ。これが第2のディレンマである。
また、日本では日本固有の知識を教えるべきだ、という考え方と、汎用性があり、レベルの高いものを教えるべきで、日本固有のものにこだわるべきではない、という考え方の双方がありうる。理工系の場合は後者であり、文学部的な分野であればむしろ前者であろうが、社会科学系、特に経済の場合はこれが第3のディレンマになりがちである。
第4のディレンマは、学生の成績をどの程度厳しくつけるか、という問題である。あまり厳しくして、落第をさせたりすると反日感情を抱いて帰ることになるおそれもある。筆者の大学でも修士論文の書き直しを命じられた留学生は一様に大きなショックを受けている。かといって、大学が、簡単に学位
がもらえるという評判になるのも非常に困る。また、なんらかのムチがないと、学生の勉強の仕方は弛みがちになる。大学としては板挟みでまさにディレンマである。
ディレンマというよりも単なる苦労も多い。特に家賃が高すぎない宿舎の確保が大きな問題である。私の同僚の先生方はアパート探しの手伝いまでしている。さらに、学生の日常的な問題(特に健康管理)は時にやっかいな問題になる。これらの問題は日本ではともすれば、教授陣の一部や学部長や学科長の負担になる。私もいろいろな目にあっているが、しかし、帰国した留学生からお礼のEメールが来ると苦労も忘れてしまう。もっと多く留学生を受け入れたいと結局思ってしまうこのごろである。
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