6月下旬、EU(欧州連合)の首脳会議がスペインのセビリアで開かれた。最大の議題の一つは「不法移民への対応」。こうした課題が首脳会議の前面に出るのは異例で、それだけ事態は深刻に捉えられているのだが、スペイン、イタリア、オーストリアなどに保守色の強い政権が立ち、この三国がいずれも北アフリカ、中東、中東欧からの人の流入の最前線に立たされていることも背景にある。中国系難民の増大に揺れる英国のブレア首相もこれに同調した。豊かで自由な西ヨーロッパで就労と生活の機会を得たい人々がアフリカや中東から、バルカンから、さらに遥かな中国からと門を叩く。その数は大きい。「不法移民の送り出し国にEUとして制裁を課す」との案まであったが、結局は見送られた。フランスやスウェーデンの首脳の説得が効を奏し、途上国との対話を進めながら解決をさぐるほかないという見方に落ち着いた。
EU諸国はおおむね専門的職業や技術者の外国人は受け入れるが、特段の技術を持たない外国人(EU内出身者は除く)の新規入国には厳しく対応している。このため、そうした外国人は「難民」として入国を試みたり、特殊な斡旋ネットワークを使い密入国しようとする。
しかし、この「不法」者問題とは別に、複眼による冷静な分析も必要だ。少子高齢化の波はヨーロッパにも確実に及んでいて、専門家は労働力不足の懸念も指摘する。高度成長期にやってきた移民労働者の子弟は今や労働市場に登場しているが、その彼らは父親とは違い、たいていヨーロッパ諸国の中等教育までを受けていて、単純労働に就くのを望まない(それだけ失業禍にもさらされている)。新規に入国してくる「不法」労働者たちが、建設とか清掃などの単純労働を担っているという側面もある。今後なお進む少子高齢化や高学歴化にどう対応するかは、ヨーロッパで潜在的ジレンマをなしているといえるが、どういう対応の仕組みをつくるか議論が深められているとはいえない。
もう一つ、先進国に問われていることがある。人道的理由からの外国人受け入れの扉を閉ざしてよいのかということである。すなわち難民受け入れである。政治的・宗教的迫害、民族を理由とする差別、戦禍、飢えなど種々の理由から保護を求める外国人がいて、近年は難民認定に厳しい態度をとる国も多いが、それでも2000年の一年間にドイツ、フランス、オランダ、英国などは各々3~8万人の庇護申請者を迎えている。難民条約締約国だからだけではなく、欧州人権保護条約、各国の憲法、その前文などによっても義務を負っているからである。難民受け入れが発展途上国を助けるのか、それとも人材・頭脳の流失などを助長しマイナスなのか、議論はいろいろで、単純ではない。しかし確かなことは、祖国を離れて庇護を求める難民の問題は世界が共に分担して担わなければならない課題であって、その負担を一国の利害を楯に避けることはできないということである。その点では地球環境問題と構造的に似ている。
このように見てきて、日本に関連してはあらためて二つの問題を感じる。
第一に、少子高齢化、これでは日本はもう世界一となっている。合計特殊出生率1.33、15歳未満人口14.3%という数字はヨーロッパのどこよりも低い。子どもを安んじて生めるような社会をつくる努力は大いに必要で、その議論はもっと具体化しなければならない。
だがこれはどちらかといえば長期の課題で、介護士やヘルパーなど差し迫って必要となってくる労働力を日本人に限らずに充足するための資格制度や入管法の在留資格の整備を始めなければならないだろう。法務省も2000年の第二次入管計画で、この方向の検討を打ち出している。
第二には、日本にとってこれまた試金石となるが、難民の受け入れへの姿勢を示さなければならない。狭い「国益」の視点だけからものを見てはならない。過去10年ほどの日本の難民認定数は年間平均2~30人にすぎず、ヨーロッパの友人たちはこれに目を丸くする。「どうして? 経済大国で、しかもマダム・オガタ(緒方貞子氏)
の国なのに。」たとえば行政から独立した審査機関の設立、入国後60日以内の庇護申請という規定の再検討など、国際的基準に照らし、考えるべき点が多い。アフガニスタン人の難民申請の却下の際、また記憶に新しい5月の中国の瀋陽市の日本総領事館の事件の際、「これでよいのだろうか」という反省の声が識者や法曹界から上がった。大いに議論をして、新しい方向を定め、人道的な人の受け入れにおいても日本が世界に寄与してほしいと願うものである。
(在フランス) |