■ まえがき ■
2015年COP21パリでの新枠組合意に向けて、各国の気候変動の国際交渉が続いている。至近では、2014年12月のCOP20リマにおいて「気候行動のためのリマ声明」として、新枠組に向けた約束草案情報や交渉テキスト要素に関するCOP決定がなされた。
我が国は、上記COP等での交渉を重ねると共に、JCM(二国間クレジット制度)署名国会合開催や適応プレゼンス等多種の取組を行っている状況にある。
当研究所においては、過年度から京都メカニズムの会計・税務問題について調査研究を進め、国内排出クレジットに関する会計・税務問題についても幅広い調査研究を実施してきた。平成26年度は、「平成26年度排出クレジットに関する会計・税務論点等調査研究委員会」として、これまでに蓄積してきた知見をベースに、昨年度までの議論を踏まえ、会計・税務の観点を中心としながら、JCM、その他について調査研究を行った。これにより、我が国産業界、さらには我が国の地球温暖化対策の推進に資することを本委員会の趣旨とする。
■ 名簿 ■
委員長: |
黒川 行治 |
慶應義塾大学教授 商学部・大学院商学研究科
会計学専攻 商学博士 |
委 員: |
伊藤 眞 |
国士舘大学 経営学部教授 公認会計士 |
委 員: |
大串 卓矢 |
株式会社スマートエナジー 代表取締役社長 |
委 員: |
髙城 慎一 |
八重洲監査法人 社員 公認会計士 |
委 員: |
髙村ゆかり |
名古屋大学大学院 環境学研究科教授 |
委 員: |
武川 丈士 |
森・濱田松本法律事務所 パートナー 弁護士 |
委 員: |
村井 秀樹 |
日本大学 商学部・大学院教授 |
(五十音順・敬称略)
(平成27年3月現在)
事務局 |
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蔵元 進 |
一般財団法人 地球産業文化研究所 専務理事 |
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真野 卓也 |
一般財団法人 地球産業文化研究所 主席研究員 |
(平成27年3月現在)
■ 構成 ■
■ 第1章 開題 ■
開題―「トリプル・ボトムライン」の前提に関する省察―
(黒川委員長)
1.シングル・ボトムラインとトリプル・ボトムライン
企業の業績は、投下資本を上回る資金の回収によって、すなわち回収余剰の大きさを「稼得利益(earnings)」 と定義して測定されてきた。最近では、経済学とくにヒックスの所得(利益)概念を援用し、資産と負債を時価評価した上で、資産から負債を差し引いた純資産の期間的変動差額(評価差損益を含む利益)を「包括利益(comprehensive income)」と称して、これを最終の業績指標とすることも主張されている。
いずれにせよ、企業会計が測定する企業の業績は、会社の経済的パフォーマンスの結果であって、経済社会がその利益を最終(最高位)の指標とすることに合意をしていることを前提に、経済的業績が良い会社は、悪い会社よりも企業価値は高いとされる。そして、経済的業績が継続的に良い会社は低い会社よりも、その会社の存続可能性(持続可能性)は高いと見なされる。このような、経済社会に普及した企業会計上の利益を最終的業績指標と見なすことを「シングル・ボトムライン single bottom line」と呼ぶ。
一方、「社会企業 social enterprise」の概念、すなわち、会社組織は、自然人とならぶ社会を構成する一員である。われわれの社会は経済的課題のみを問題にして構成・運営されていない。われわれの社会には、自然環境や社会的(人的)環境に関する課題が充満している。会社も自然人同様に、これらの自然環境や社会的(人的)環境に関する課題に対して、ポジティブな影響を与えているのか、ネガティブな影響を与えているのかということに関心を持ち、自然環境や社会的環境の改善に貢献しなければならないのではないか。自然人を評価する場合に、経済的パフォーマンスのみによってその人を評価するという社会的合意があるのであれば、これ以上の議論は無駄であるが、そうではなく、自然人の評価は、それ以外の自然環境や社会的環境における業績を含めて行われるという合意がある社会であれば、企業の評価も同様に多元的指標を用いて行うのが道理となる。企業の業績として、経済的パフォーマンス、自然環境への影響、社会的環境へのインパクトの3つの指標を独立した最終指標として測定、表示するのが「トリプル・ボトムライン triple bottom line」である。
2.「シングル・ボトムライン」的経営の典型例
今から 15 年前、日本政府がスポンサーとなって、5年計画の日中の共同プロジェクト(慶應義塾大学と北京の清華大学がプラットフォーム)があった。私はそのプロジェクトの一環で上海にある「上海電力」を訪問し、研究プロジェクトの協力要請をした時の様子が目に浮かぶ。このプロジェクトには同時並行の9つのサブプロジェクトがあり、その1つに「経営管理」があった。私はその経営管理プロジェクトの主査だったのでテーマを決定することができ、その1つとして、「環境会計」の種を中国に蒔く事を計画した。当事、環境会計の分野では、日本は欧米と並んで研究および実践が進んでいたので、中国への情報提供および実践の協力ができた。また、酸性雨のもとになる物質の多くが、中国の大気汚染で発生している可能性が科学的に判明してきたころで、大気に限らず水質汚染など中国の環境問題の解決に少しでも貢献したいという思いがあったからである。
課題を解決するためには、先ずもって問題となっている状況を「見える化」しなければならない。そこで、中国でも最大級の石炭火力発電所をもつ上海電力に、「日本の環境会計基準を参考にしながら、環境負荷物質の発生状態を測定してみないか」という勧誘・相談に行ったのである。上海電力が使用する石炭は硫黄分の多いもので、当事の日本ではもはや使用されていないものであった。技術担当の副総経理(副社長)が応対に出られたのであるが、見事に断られた。理由は、「硫黄分の少ない高価な石炭を上海電力が使用しても、一般家庭は硫黄分が多い石炭を燃やし続けるだけであるし、燃料代が高くなるので電気料金を上げないと利益が下がる。」さらに、驚いたのは、「硫黄分の少ない石炭を使用すると、副製品として販売できる石膏の産出量が減少してしまう」というものだった。
当事の中国(高度成長期の日本も同様)では、企業の業績とは何かという問題に対する社会的合意は、経済的利益を最重要とするもので、企業は、会計上の利益最大化を目標に経営するシングル・ボトムライン指向であった。私が環境会計の普及を目論んだのは、「社会企業」としての経営者マインド(本稿で言及するトリプル・ボトムライン)の紹介と普及であったが、15 年前の中国の状況では、そのような目標は早すぎたようだ。
3.経済的パフォーマンス、自然環境への影響、社会的インパクトの3つの指標の理想的関係
経済的パフォーマンス、自然環境への影響、社会的インパクトの3つの指標の関係をどのように理解するのかを検討することは興味深い。思想的な対立があるからである。会社も自然人とならぶ社会の構成員であるので、自然環境の保護に尽力する人を尊敬するように自然環境へのポジティブな影響をもたらす会社の社会的評価は高い。逆に、自然環境への影響がネガティブな会社であっては、他者から迷惑者として排除される。同様に、社会的インパクトがポジティブな会社の社会的評価は高くなり、ネガティブな会社は長期間存続することができない。
議論を進めるために、ここで議論している自然環境への影響と社会的インパクトにはどのようなものがあるのかを確認しておこう。自然環境へのポジティブな影響には、生態系の維持や自然環境の改善、緊急時のリスク管理、継続的な汚染物質の浄化、リサイクル化された原材料の使用、簡易包装、廃棄物の可能な限りの軽減などがある。また、自然環境へのネガティプな影響には、大気汚染、水質汚染、天然資源の浪費、再生不可能な資源の利用、騒音、放射能汚染、過剰包装などが挙げられる。
ポジティブな社会的インパクトとは、雇用の創出、従業員の教育、コミュニティへの参加活動、慈善活動や文化普及活動、人々の便益向上を目標とする研究・技術開発などである。また、ネガティブな社会的インパクトとして、労働者の人権侵害、労働災害防止への無理解、地域住民(雇用者および消費者)への配慮なき事業所の撤退、過剰あるいは悪質な宣伝・勧誘、文化や良き慣習・規範の破壊などが挙げられる。
そこで、これら2つの指標と経済的利益指標とを合わせた3つの指標の関係を述べると、「自然環境への影響と社会的インパクトの両方ともに、ポジティブなものを大きくしネガティブなものを小さくすることに邁進する会社は、それらの活動に対する社会からの認知・応援によって、経済的利益も大きくなる」というシナリオである。つまり、 3 つの指標は同時にプラスになり、同時にマイナスになる。このような思想・前提に疑問を抱かなくて済むような理想的な市民社会であれば、もはやこれ以上の考察は必要ない。
4.経済的パフォーマンス最大化が目的関数、自然環境への影響と社会的インパクトの 2つの指標が制約式
しかしながら、自然環境への影響や社会的インパクトは、外部経済・不経済とみなされてきた社会的課題が多く、それらの影響を受ける利害関係者による会社経営へのはたらきかけは、所有者や潜在的所有者(投資家=資本市場)による経済的利益最大化に関する直接的な働きかけと比較して、同等なほど大きいかというと甚だ疑問なのである。自然環境への影響と社会的インパクトを定量的に測定する方法が精緻になり、トリプル・ボトムラインの業績測定が普及したとしても、経済的利益最大化が目的関数であり、他の2つは制約式に留まるのではないのか。自然環境への影響や社会的インパクトへの配慮は、社会構成員たる会社の存続にとっての必要条件であって、これらの条件を充足した上で、会社は経済的利益最大化の努力を行う。換言すると、経済的パフォーマンスを最大化する活動は、他の2つのパフォーマンスについて社会的合意に基づくある水準を守らないと、実現できないと考える思想である。
自然環境へのネガティブな影響を防止すること、ネガディブな社会的インパクトの発生を制限するという社会政策としての「規制」を想定すると分かりやすい。この規制水準を遵守する会社が社会において存続が許され(それを制約として)、経済的利益最大化のための自由競争に参加できるという仕組みである。規制という公共政策は、「補助金」、「ピグー税」、「情報開示の強化」、「取引可能許可証制度」と並ぶ典型的公的解決策の一つである。規制の問題点は、規制水準をクリアすることが最終ゴールとなって、それ以上の環境へのポジティブな影響やポジティブな社会的インパクト量を増加させようとするインセンティブに欠けることなのである。
5.自然環境への影響と社会的インパクトの2つの指標のポジティブ量最大化が目的関数、経済的利益が制約条件の会社経営は成立するのか
目的関数と制約条件を入れ替え、自然環境への影響と社会的インパクトの2つの指標のいずれか、あるいは両方のポジティブ量最大化が目的関数、経済的利益が制約条件の会社経営は成立するのかを考察してみよう。例えば、北海道の観光旅行において、トラピスト修道院への立ち寄りは観光コース上の定番であった。トラピスト修道院の手作りのバター飴をお土産に購入した読者も多いであろう。トラピスト修道院のバター飴事業は、利益最大化を目的としてはいない。修道院における祈りの生活を自立的に行うため、中世に修道僧がワインやパンを焼き、それらを食材などの生活必需品と交換したことと同じ行為である。経済的持続は必要条件であり、宗教的・社会的、文化的パフォーマンスの最大化が目的である。もう?し身近な組織としては、生活共同組合が例示できよう。生活共同組合は、組合自体の経済的利益の最大化が目的ではない。組合員に安全な食材を届けることや、グループである程度の量を購入し、輸送にかかる経済コストや環境コストの節約が目的にそう活動である。しかし、これらの例示はもともと非営利組織の特徴・定義とされるものである。営利を目的とする組織の事例はあるのであろうか。
思考実験として極端なケースを想定してみよう。環境負荷物質削減技術を研究・開発している会社があり、いつ成功するのか定かではない研究開発のコストが毎年多額に上り、利益と配当は0、株価も低迷している。つまり、投資家にとって、インカム・ゲインとキャピタル・ゲインの両方ともに現状では期待が持てない会社があるとする。その会社に長期間、よろこんで株主となる投資家がどれほどいるであろうか。もちろん、この技術開発が成功すると、この会社が提供する製品・サービスへの大きな需要が生まれるので、将来の経済的利益の飛躍的な増大が期待できる。しかし、この理由による投資の継続と会社の持続は、経済的利益の最大化目的が前提となっている。
もし、自然環境へのポジティブな影響の最大化が会社の目的であれば、製品・サービス価格は社会への普及のため廉価でなければならない。したがって、経済的功利主義を前提とするファイナンス理論が想定するところの、リスクに見合う高い資本コストを回収可能とするだけの利益を獲得するための販売・価格戦略は採らないことが求められる。だからこそ、自然環境へのポジティブな影響を最大化するような会社経営は、功利主義を前提とする資本主義社会ではその存在が困難なので、社会的限界便益と私的限界便益との差額だけの「補助金」の交付が、公共政策として必要になるのである。
6.「(株)ミツトヨ」のケース ―会社設立の目的が社会的貢献―
私の手元には、仏教伝導教会の『和英対照 仏教聖典』がある。30 年前、慶應義塾大学が所在する田町駅の近くに、豆類など野菜を用いてお肉の食感を味わえることが評判の精進料理の店があった。この店は、仏教伝導教会のビルに入っていたので、昼食をいただきに行った際、この本を入手したのである。仏教伝導教会は、仏教聖典(仏教の教えの精髄とされるものをまとめたもの)を作成し,英語のみならずフランス語、ドイツ語、スペイン語、ボルトガル語、韓国語、インドネシア語、エスペラント語などへの翻訳を行い、出版・献本活動を通じて仏教の普及に努めている。私が所蔵しているものは、昭和 59 年 7 月 25 日付けの第 363 版である。(ちなみに、初版は昭和 50 年 2 月 15 日である。)仏教伝導協会は、世界的な精密計測器メーカーの「(株)ミツトヨ」の創業者である沼田恵範氏が、私財を寄進して組織化したものである。この本に書かれている(株)ミツトヨと仏教普及活動について要約して紹介しよう。
沼田恵範氏は、(株)三豊製作所(ミツトヨの前社名で、社名の由来も次の記述で推測ができる)を創立し事業を始めたとき、「事業の繁栄は天・地・人により、人間の完成は智慧と慈悲と勇気の3つが整ってのみできるものであるとして、技術の開発と心の開発をめざして会社を設立した。世界の平和は人間の完成によってのみ得られる。人間の完成を目指す宗教に仏教がある。彼は 40 余年にわたる会社経営のかたわら、仏教伝導のために仏教音楽の普及と近代化を志し、仏教聖画や仏教聖典の普及につとめてきたが、1965 年 12 月にこれら一切の仏教伝導事業を組織化し、これを世界平和の一助とするために私財を寄進した。」(仏教伝導協会(1984)、609 頁)。
現在でも、(株)ミツトヨのホーム・ページを見ると、「創業の精神」(創業者が会社設立に託した強い思い)が次のように書かれている。
(1)仏教伝導の支援を通じて人々の幸福に寄与する
・共存共栄の心である仏教伝導の支援を通じて人類の平和と幸福に貢献するという願いが最初にあり、この願いを成就するために会社を興しました
・また、会社は縁あって集まった社員が共に成長し共に幸せを追求する「共生の場」であり、人格を磨く「人生の道場」でなくてはならないと考えました。
(2)活動する領域において世界のトップレベルを目指す
・創業者がマイクロメータの国産化に着目したのは、“人に迷惑をかけない”“世のためになる”という共生の心に基づいています
・まだ技術も確立されていない時代に、「やる限りは世界でも一流と評価され、信頼される存在になる」という高い志をもって事業を開始しました
このように、(株)ミツトヨは、世界平和と人格の形成のために仏教の精髄の伝導を目的としている。その活動費用の捻出のため、経済的利益獲得事業をしている。しかしながら、現在の資本主義社会を俯瞰してみて、社会的インパクト指標のポジティブ量最大化を目的にし、経済的利益の追求はそのための必要条件であるとして経営されている会社は、どれほどの比率で社会に存在するであろうか。
7.おわりに
―社会的インパクトの最大化と経済的利益の最大化を両立させるような「地方上場会社」は存在できるか-
私は、2年前、札幌証券取引所の理事長に直接会いに行き、「顔の見える地方上場会社の育成」を働きかけたことがある。顔の見える上場会社とは、会社所在地のコミュニティを構成する消費者・住民、従業員、地方銀行、取引先などに株主になってもらうことをいう。前述したように、株主としての会社経営に対する影響は、消費者・住民、従業員、取引先などのそれに比べて大きいことから、社会的課題に関連するステークホルダーに株主資格でも参加してもらう。非上場に留まらずに上場する意義は、それらのステークホルダーに退出の自由度というメリットを与えるためである。そして、社会的インパクトの最大化と経済的利益の最大化を両立させるような社会的地方企業の育成の可能性を話しに行ったのである。しかし、理事長いわく、「上場する意義は、株主の匿名性にあり、根本的に私(黒川)のモデルは矛盾している」として一蹴されてしまった。当時の地方単独上場会社は、デイ・トレーダーの投機対象になっていて、長期保有のス テークホルダーとしての株主の存在に期待が持てなかったのかなと想像している。
本年度の第2回研究委員会の議題の1つとして、「環境課題と CSV 経営(Environmental issues and Creating Shared Value management)」についての紹介があり、CSV(The concept of shared value which focuses on the connections between societal and economic progress)との関係で、トリプル・ボトムラインについて言及した。ところで、「黄金律 golden rule」と呼ばれる倫理的・道徳的言明のなかに、含意が似ている2つのものがある。その1つが、「自分が他者からして欲しいことを、他者にしてあげなさい」という言明であり、他の1つが、「自分に対し他者からして欲しくないことは、他者にすることなかれ」という言明である。私は、これら2つの倫理的言明のニュアンス・含意の違いに思いがある。そこで本稿では、これら2つの黄金律の意義に留意しながら、トリプル・ボトムラインの前提にある思想について省察してみた。
(参照)
・仏教伝導協会(1974)「和英対照仏教聖典 The Teaching of Buddha」
・http://www.mitstoyo.co.jp/corporate/idea/ 2015/03/02
■ 第2章 取り巻く状況 ■
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・2-1 国際交渉
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・2-2 国際炭素動向
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・2-3 国際環境経営
「環境とCSV経営」(事務局)
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■ 第3章 従来と最新 ■
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・3-1 前年度レビュー
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・3-2 二国間クレジット制度の最新動向
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■ 第4章 論点 ■
■ 第5章 関連その他 ■
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・5-1 地域の削減取組
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・5-2 経営者・投資家フォーラム
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・5-3 国内の調査
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