2009年2号

「国際金融危機」を「市場経済のパラダイムシフト」の機会に

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 リーマン・ブラザーズの破綻を契機とする国際金融危機が世界の経済社会に猛威をふるっている。わずか2、3年前G7財務相・中央銀行総裁会議は、当面の世界経済は極めて順調に推移しているとして大いなる安定を高らかに宣言したが、その認識のベースは一体何だったのか。当時を振り返り、何故あの時点においてかかる認識しかできなかったかに思いを寄せてみる必要があろう。

 今日、私たちは、国際金融危機を100年に一度の危機と形容し、このフレーズに安住しているが、何故に100年に一度の危機なのか、また、危機の本質は何かを説得的に分析・説明した問題提起は少なく、これからの脱出にどのくらい時間がかかるかといった期待と推測、財政出動を含めたそのための政策的対応に議論が集中している感がある。

 同じ事象は、1990年初頭バブル経済崩壊によりわが国経済の不振・停滞が続く中でも経験した。すなわち、失われた10年、15年の常套句の下に、バブル経済を生んだわが国経済社会の原因、当時バブル経済という認識さえ持ち得なかった所以を徹底的に究明しなかった。これを一過性の景気循環のようにとらえ、戦後経済社会のパラダイムシフトの中にあるわが国経済社会システムの何処に問題が生じ、いかなる構造改革が必要かというグランド・デザインを明確に提示できなかった。その結果、なし崩し的な景気刺激策、市場から追い込まれての不良債権処理、明確な思想を欠いた規制緩和策、そしてそれらは今日その是非を巡って揺れ動いている。

 今回の世界経済危機は、単にわが国のみならずグローバル経済下における市場経済のあり方が問われているわけであるが、特に実体経済と金融経済の関係について徹底した国際的議論を展開し、21世紀の市場経済システムのあり方が展望されなければならない。

 翻って考えてみれば、今日の事態は、第二次大戦以降の世界経済システムであるブレトンウッズ体制に始まるシステムから今日に至る諸事象の中から生み出されたものであり、かかる認識から議論を始めなければければならない。ブレトンウッズ体制は、1971年のニクソンショックとそれに続く変動相場制への移行により変貌を遂げてきたが、世界の経済体制は、1973年、79年の2度にわたるオイルショック、1985年プラザ合意、ベルリンの壁崩壊、中国の改革開放・WTO加盟、インドの覚醒などの下、グローバルな市場経済の進展により世界経済の一体化が進んできた。フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」、トーマス・フリードマンの著わす「フラット化する世界」等の著作は、近年のグローバル市場社会を観察し、民主主義社会の優越性、経済社会における人々のチャンスの拡大等により、人間の未来を楽観的に予言したが、事態は一直線に進まないのが歴史の現実である。

 この間、全世界の経済発展に伴う環境問題は地球環境問題として、人類社会の相互依存性を人々に認識させ、市場経済の進展は一方において世界の貧困層の縮小をもたらしたが他方において伝統的コミュニティの崩壊による貧富の格差をより認識させ、また、実物経済のサポート機能を持つはずの金融が実体経済から遊離し、金融工学の名の下に拡大・増殖し、経済社会に大きなダメージを与えている。

 市場経済システムは、代議制民主主義と同じように様々な欠陥を有するがこれに代わるシステムを私たちは手にしていない。代議制民主主義システムが、政治的リーダーシップとそれを支える国民の努力によって成熟を増すように、今回の金融危機は、私たちにより次元の高い市場経済システムをどう構築すべきかを考える契機を与え、今次危機が内包する今日の市場経済の欠陥を克服する絶好のチャンスととらえるべきではないだろうか。

 地球産業文化研究所は、環境問題に関し、「地球」をベースとする相互依存関係にある人類の不可避性の認識を、「産業」と「企業活動」をベースとする人類全体の真の生活の豊かさ追求を、企業と消費者をめぐる「文化」をベースとする企業の社会的責任、ビジネス倫理、消費者の役割の追求にその活動のプラットフォームをさらに広げ、わが国の国際貢献の一端を一層追及されることを期待したい。

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