10月25日~11月5日にドイツ・ボンにてCOP5が開催された。巷には既に政府・研究機関・NGO等より、かなりの報告書が出されており、結果 について既にご存知の方も多いと思われる(当研究所HPにも、ごく簡単にまとめた「概要」と、詳細な「最新情報(Earth Negotiations Bulletin和訳)」を掲載)。そこでここでは、会議の概要を織り交ぜながら、他ではあまり紹介されていないCOP5にまつわるあれこれについて述べさせていただいた。読み物として、肩の力を抜いて気楽にお読みいただければ幸いである。
ボンと会場
COP5の会場、ホテル%マリティムは、ボン中央駅から最寄り駅までUバーン(市電)で約11分、そこから徒歩5分ほど、連邦政府の旧官庁街に位 置する。連邦政府はおおかたベルリンに移転したが、まだ一部残っている様子。そのため、会場周辺は建物は残っているものの、COP関係者以外あまり人はおらず、閑静でだだっ広い感じである。紅葉が美しく、かえってのどかですがすがしいともいえる。
連邦政府の移転により、ボンもこれからどんどんさびれてしまうのでは、という危惧を抱かずにはおれないが、このUNFCCC事務局を始めとした国際機関誘致に加え、科学技術関連のセンター的役割を担っていこうとする試み等、いろいろな対策がそこそこうまくいっているそうである。たしかに町中の活気は連邦政府がほとんど移転した割には衰えていないようだ。今回会議に平行して行われたスペシャルイベントの会場としても、マリティムだけでは部屋が足りず、「Justice」 「Education」や「Transport」といった旧連邦政府の建物の一室が使われ(ただしCOPイベント会場としての案内板がほとんどないため実にわかりにくい)、NGOの事務所としても提供された。抜け殻の建物もこれから大いに有効利用されることが望まれる。
なお本会場のマリティムでは前回補助機関会合における爆弾騒ぎの教訓からか、空港と同じような手荷物検査機が出入り口に設置され、全員がゲートをくぐることになった。そのためマリティム外の会場で行われるイベントからの移動は少々煩わしいものとなったが、これが功を奏してか、幸いにも(?)今回は爆弾騒ぎはなかった。
会場の前で
初日会場に着くと、どくろのお面 をかぶった人々が、「電力自由化による価格競争は、コージェネ(熱電併給)や太陽光発電を淘汰し、価格競争力のある大型石炭火力発電や大型原子力発電所が生き残ることで、CO2は排出は増えてしまう。Nonpolluting electricity危機に直面!」といったペーパーを配っていた。
また会期終盤には「原子力は一つの(気候変動問題の)解決策である」との横断幕をはり、風船を800個つけ、一個あたりが100万tのCO2削減量 を表すとして、ヨーロッパで毎年8億tの削減に貢献しているという文面のビラを配っていた少年少女の団体がいた。不思議なのはこの団体、European Nuclear Society in collaboration with the Young Generationと紹介されていたが、この「若い世代」とは一体何者なのか、彼らは風船の前ではしゃいで記念撮影を延々と続けるだけあった。
一方風力発電モニュメントがマリティムの庭に出現し、これからマリティムも自然エネルギーPRを商売のネタにしていくのかと思ったら、ヨーロッパエネルギー風力協会等によって設置されたようである。
Uバーン(市電)にみる理念
ボンはその都市規模の割に、実に公共交通 機関が発達しており、便利である。特にCOP5参加者の多くがUバーンを宿泊先からの「通 勤」に利用するのであるが、今回はCOP5参加バッジをつけていれば期間中%市内バス%Uバーンは無料という取り計らいがされた(博物館や美術館も入場無料)。これにタクシー業界が反発したという噂は聞かなかったが、既にあるインフラを利用する方が経済的で、CO2抑制につながるという点で、(会議がCOPであるだけに?)公共交通 機関を無料にすることに、さすがに反発はできなかったのかもしれない。
Uバーンは市街地では地下に潜るが、地上に出ると照度センサーが付いているのか、車内灯が自動的に切れるようになっている。また、駅が地下部分であっても改札は存在しないため、思いついた時にさっと乗れ、例えば自転車に乗ってホーム側まで来て(車道には自転車レーンがある)すぐに自転車ごと乗車できてしまう。中にはスロープ型のエスカレーターがついている駅もある。無い場合でも、階段で自転車を持ち上げて運ぶ女性も多い。エスカレーターは基本的に人が来たときのみセンサーで稼働する。車体も駅も決して新しいとはいえないが、こういった配慮が既になされているところに、彼らの公共交通 というものに対する理念を感じることができ、日本との配慮(サービス)のポイントの違いを実感する。勿論これには混雑度%コスト(地盤等)・モラルハザード%税負担と受益者負担のあり方%コンセンサス・気候などの各要素、及び実際の経済環境への影響等を総合的に見なければならないため、一概にどちらが良いといえるものではない。ちなみに会場内ボンインフォメーションデスクで無料配布していた布袋には、バスにのった運転手と自転車に乗った人・徒歩の人・Uバーンの運転手が横一列で手をつないでいるイラストが描かれていて、実に微笑ましいものであった。
COP5の位 置づけ
当初よりCOP5は、COP4で採択されたブエノスアイレス行動計画にうたわれているCOP6での合意にむけて、それまでの道筋(作業手順・スケジュール・流れ)を決定する場と見なされていた。つまり、如何にこれからの議論を促進させるような道筋をつくれるかどうかが鍵であり、内容的な進展は見込まれていなかった。これは開会時にもCOP5議長シシュコ氏によって明言されたことであり、採択結果 もまさにその通りであったことは既にご存知であろう。確かに前回のように、途上国の動向如何によっては、それさえにっちもさっちも行かなくなる可能性はあったかもしれない。その意味では、皆がはじめから議論のテーブルにつき採択が進んだこと自体、そこそこ進歩した、とも解釈できる。
「そもそも論」と現在
COP5がある程度の進歩と解釈されることに対し、例えばIPCCの報告によればすぐにでも温室効果 ガス排出を半分まで抑制しなければいけない、あるいはあと1年で議定書発効に向けた合意にもってかなければいけない、という立場からすれば、これはあまりにも低次元での進歩でしかないと思われても無理はないだろう。だが、今人類がその低次元でもめるぐらいのレベルでしか気候変動問題を扱えないことも事実であり、そのレベルから自分たちの行く末を、少しでも良い方向へ持っていくべく見極め、行動する他ないといえる。つまり、結果 どう転んでも、それはどこぞの絶対的存在が我々にそれを強制したわけでもなく、我々自身の努力選択した結果 だということである。
では、だからといってその結果 気候変動が起こり、(わかりやすい例として)仮に食糧危機に陥った場合、皆自分達の選択の結果 だと素直に納得するだろうか?
こう考えていくと、問題は改めて気候変動問題の特殊性の原点に立ち返ることになる。即ち、おおいなる不確実性(本当に自分がどうなるのか?→危機意識の薄さ)と、構造上「信賞必罰・自業自得・因果 応報」とならない(可能性が高い)ことである。
例を挙げよう。確かに赤信号はみんなで渡れば怖くないが、その中の誰かが車にひかれることはあり得るし、ひかれても文句はいえまい。ところが同じ赤信号で渡ったのに全く無事な人は大勢いる。怖いかどうかと自分が被害を受けるかどうかは別 問題であり、悪いことをしたことと自分がひかれるかどうかも別問題である。しかも、逆に青信号で渡ったとしても、運悪く酔っぱらい運転の車にひかれることもある。加えて我々のほとんどは、いま信号が赤なのか、青なのか、交通 量はどれくらいなのかもはっきり判断ができず、あるいは、信号自体があるかどうかさえ気にしない人も多い状況なのである。
起こりうる損害コストとリスク(確率)の積であらわされる気候変動インパクトのコストと、削減(緩和)対策のコスト(付随便益を差しひいたもの)を共に世界で合計したものを天秤に掛けつつ議論することが本来の姿なのだが、「とりあえず良くはわからないが、重大な問題になりそうなので削減しなくては」では、上記「信号」の例のようになり、自分は削減せずとも、全体としては削減スキームが必要だというおかしな話になってしまうのである。
しかしこれまた、今更「そもそも論」をしても仕方がない。この問題には「そもそもおかしいところ」が既に数多く内包されており、現在はその中で如何にだましだましうまく転がせていけるかが問われている段階である。それが最終的な人類にとっての便益につながればよいのである。COPでそれを実現することができるとすれば、それはある意味人類の進歩といっても過言ではないだろう。
わずかな光が・・・?
今回のCOP5で今後の議論に光を与えたものがある。一つ目が「リオ+10」の政治的モーメンタムが得られたこと、二つ目はサウジアラビアを代表とする中東産油国が孤立化しつつあることである。開会挨拶におけるCOP4議長及びシュレーダー独首相を皮切りに、閣僚級会合において日本、EU等多くの締約国が2002年までの議定書発効を主張し、会場に「リオ+10*」ムードが広がった。(*1992年にリオで開催された「地球サミット」から10年という意味。2002年は枠組条約が採択されて10年というきりの良さに加え、COP6において合意後国内整備%批准を考えると議定書発効までの事実上の最短ケースと目されている。またこれを過ぎると議定書目標達成や、2005年に第2コミットメント期間の交渉を始めることが難しくなると思われる。)一方批准については、用意があると発言したEUを除く先進国からは、これからの交渉結果 次第ということもあり、明言はなかった。
二つ目については、COP5で途上国問題についてより議論が個別 具体化したために、各途上国の事情の違いによって途上国の分裂傾向が強まり、かつてG77+中国のリーダー格だったサウジも、今後その地位 を維持できなくなると予想される。例えば、サウジ等産油国が条約4条8,9項問題(悪影響への対処)について進展(自分たちへの経済補償)がなければ京都メカの議論をブロックする姿勢を示したことに対し、先進国としては気候変動による悪影響が深刻な他の途上国に対する支援の強化を示して、対応方策による悪影響を主張する産油国の孤立化をはかっている。これはある程度功を奏し、結果 、今後2つのワークショップにわけて議論することが可能になった。会期中は最貧国であるアフリカグループ、温暖化の影響を最も受けるであろう小島嶼国など、途上国の中のサブグループでの会合が頻繁に行われていた(グループ会合は当然、非公開のため、内容は確認できない)。
COP6まで残り11カ月
COP6の日程は米国等の主張する2001年早期は通 らず、2000年11月13~24日に確定した。またこの結果、よりいっそうの議論の促進策が求められた。まず一つに補助機関会合が6月(第12回)と9月(第13回)に一週間ずつ分割され2回となり、各々の前一週間に非公式会合が開催されることになった。二つ目に、日本の山本外務政務次官の「ファシリテーター」の提案(COP5議長に指名を受け、その権限で調整役としてネゴをすすめるべく飛び回る)があげられる。この提案は多くの先進国やアフリカ諸国から支持を受けたが、中国・サウジ等が従来の公式会議以外に交渉プロセスを作ることになるという観点から反対し、明確には議長提案に示されなかった。しかし、「議長に必要なあらゆる措置をとることを要請する」という文言がはいり、ファシリテーター実現の可能性も含ませた。
京都メカニズム
コンタクトグループにて、第2次の締約国の提案統合書(当研究所HP "UNFCCC情報"に和訳を掲載中)の内容一つ一つについて、ブレインストーミングを行った。「交渉」はできなかったため内容的に決まったことはない。逆に交渉ではないからこそ、統合書を最後まで(=3つのメカニズムを通 して全て)読み合わせることができたともいえる。supplementality(補完性)に基づくEUの上限提案(あるEU代表団メンバー曰く、一つのネゴシエーションオプションとして)や、3つの京都メカによるの排出削減量 のfungibility(互換性)、資金のadditionality(追加性)等について、やはり幾つかの意見が述べられ、見解が分かれた。2000年1月31日まで締約国の更なるコメントを集め、再度改訂版テキストが作られる。今回のたたき台であった第2次の統合書は技術的な部分(ベースラインやモニタリング、運営機関、登録簿、検証法など)がAnnexとしてついており、内容は空白であったため、次回の改訂版までにはこの技術的な部分に関する提案が集まると予想される。なお今後の新たな問題としては中国が、3つのメカを一度に採択するのではなく、1つ1つ別 に採択すべき(ただしCDMが一番先)だと主張したことが挙げられる。
共同実施活動(AIJ)
また、決定が求められていたAIJについては、G77+中国がパイロットプロジェクトの地理的アンバランスを指摘、パイロットフェーズの延長を主張した。先進国は軒並みクレジット化への道筋をつける方向で主張したが、クレジット移行については決定に盛り込めず、パイロットフェーズの延長が決まった。
吸収源(sink/LULUCF)
次回の第12回補助機関会合(6月)において、5月に提出されるIPCCの特別 報告書の検討を行い、第13回同会合(9月)での検討のため何が3条4項に含まれるかの意見提出を行うこと等、COP/MOP1において採択できるような草案をCOP6で合意すべくワークプログラムが組まれた。なお、日本が目標達成には欠かせないとして重要視している3条4項の追加的活動について、これを含めると豪・加・EU・米などで排出枠を劇的に増加させてしまうという研究結果 を引用し、方向転換を訴えるNGOもあり、締約国のデータ提出等が注目される。
遵守制度
京都メカよりも半年進行が遅れている。共同作業部会において議論が行われ、今後この作業部会を継続し、COP6において決定できるよう(so as to enable~to adoptと強い表現)作業を完了させることが決まった。議論の分かれ目は不遵守判定%措置をどう設計するかである。特に不遵守に対する罰則といった拘束力を持たせるためには議定書の改訂が必要(議定書18条)となることから、もし改訂となれば、他の項目についても議論が紛糾し、京都議定書がご破算になる可能性が高いとみて、日本としては改訂を必要としない方向で考えている。NZは課徴分も加算して次期コミットメント期の割当量 から差し引くという事実上のボローイングともとれる方式を提案している。
途上国参加問題:米国の批准は困難か
「条約4条2項(a)(b)の妥当性に関するの2回目レビュー」という議題は以前同様、参加の枠組みの途上国への拡大が意図されたものだったが、中国が「(a)(b)の実施の妥当性」とタイトル差し替え(によって参加問題が入らなくなる)を主張したため議題は保留され、最後の全体会合でまた先送りが決定されてしまった。既に中国は中進国となるまでいかなる義務も負わないと明言しているため、米国のいう批准条件である「キーとなる途上国の意味ある参加」実現は非常に厳しくなった。またトルコのAnnexⅠ(Ⅱ)脱退・カザフスタンの参加問題は全て先送りとなった。トルコ脱退についてはこれが「前例」となってしまうことに対する懸念が、カザフスタン参加については更なる情報を求める発言が途上国の中からあり、結局コンセンサスを得られなかった。
アルゼンチン発言(動的目標等)の価値
かねてよりアルゼンチンの自発的目標についての閣僚発言が注目されていたが、内容は「削減が2008~2012年にBAU(何も削減対策をとらなかったとして想定した場合)の2~10%と見積もられる*」というものであった。1990年比などの明確なものではなく「(想定ケースである)BAUと比べ2~10%」というところに消極性を感じたのか、会場の一部に期待はずれムードが漂い、すぐに「落胆」を文書で表明したNGOもあった。そのNGOの試算によると、アルゼンチンは吸収源抜きの国内対策のみで2010年に想定の30%削減することが可能であり、なおこれでも1990比では40%増とのことだった。
(*後にアルゼンチン代表団の開いたイベントにおいて E=I×√P E:排出量 I:index(151.5) P:GDP(1993年アルゼンチンペソ) を維持すると発表された。)
またアルゼンチンは非AnnexⅠの立場を維持することや、排出量 取引への参加にも触れたが、これが別の取引カテゴリーをつくることを意味しているという話や、好きな目標を自分で決めて(と言うなら、もともとこの温暖化防止のスキームはすべて自発的なものだが)排出権が売れるなんて、といった反応まで、いろいろと評価が分かれるところである。AnnexⅠ以外の国が、成長段階にある途上国向きの動的目標を自ら提案したこと自体は、今後の途上国の一つの削減指標になるかもしれないという面 では、評価しても良いかもしれない。
サウジアラビアの名言:公用6カ国語!
石油消費減少を憂い、いつも会議の進行をあれやこれやで妨害し、次は何を言ってのけるのか常に注目が集まるサウジアラビア。今回はまず、途上国(G77+中国)の合意が得られていないとの理由で、会議を明日に延長して欲しいという戦術をとった。会議後半では、常に英語を使っているにも関わらず、なんと英語を読む力が無いと言いだした。これにはさすがに、そこまで自ら道化となって、中東産油国のため(は自分のためかもしれないが)に会議を妨害しなければならないのか、と彼の宿命に同情すら覚えた。しかし、最後の全体会議では逆に名言が飛び出した。会議における全ての提案書は国連公用語の6カ国語に翻訳されるべきである、と訴え、今回はいいが次回からは納得しないと発言したのである。確かに公用6カ国語に本来優劣はないはずであるから、もっともな発言である。次回からの条約事務局の苦労が忍ばれる。
なおサウジアラビアは、その利害関係が一致する米国産業界とも繋がっているようで、米国産業界を代表するパールマン氏が積極的に途上国と意見交換を行っていたのが印象的である。
一方中国は、常に議定書や条約の該当個所を指し示しながら引用する語り口が印象的であり、細かいところにも目を光らせ、まっとうに議論をリードし、G77+中国の代表として申し分ない働きをしていたといえる。
最終日徹夜のジンクスの終焉と、更なる苦難への突入
補助機関会合やその下のコンタクトグループでは延長もあったものの、COP5本会議ではサウジの発言もあまりなく、採択は予想外にすんなり進み、最終日は午後に閉会となった。アフリカグループの、日が出ているうちに帰れることをうれしく思うといった発言に、会場には安堵の微笑みが広がった。2週間にわたる会期のフィナーレ・感動の一時であったが、来年はこうはいくまい、と誰もが思ったに違いない。
COP5によって、我々はようやく地図とコンパスを手に入れスタートラインにたつことができ、同時にそのコースを目の当たりにして、あらためてその厳しさを実感した段階だといえるだろう。
(中西 秀高)