平成9年度より行われた「市場経済のグローバル化のための新要素を考える」研究委員会報告書完成したのでその概要を報告する。冷戦終結後、旧社会主義国を含め多くの国々が市場経済体制に移行し、市場経済のグローバル化が進展した。経済のグローバル化とともに「制度間競争」もいっそう激化している。本委員会では、市場をさまざまな制度の集合として捉え、労働、金融、業界団体など日本の市場を構成する多様な制度を分析し、また主要国の市場の比較を行う中から、日本経済の改革の方向、国際システムのあり方について議論を深めた。多忙な中、委員会出席、報告書執筆に貴重な時間を割いて下さった奥野委員長をはじめ委員、講師の方々に御礼を申し上げる。
1.混迷の中の経済学
いま、民主主義に対立しているのは全体主義ではない。資本主義に対立しているのは社会主義ではない。民主主義に対立しているのは民主主義であり、資本主義に対立しているのは資本主義なのだ。アムステルダムの国際ビジネス研究センターは、おもいあまって世界中にアンケートとヒアリングを行って「地球上には少なくとも7つの資本主義がある」と指摘せざるを得なかった。フランス総合保険の会長で「資本主義対資本主義」の著者でもあるミシェル・アルベールは、なかでも「アングロサクソン型資本主義」と「ドイツ=日本型資本主義」の対立が激化していると観察した。複雑かつ混迷を続ける現代経済を説明するために「複雑系の科学」まで登場した。複雑系とは部分の総和では全体の特徴の予測がつかないシステムのことで、構造的に複雑なシステムの成長を一様に観察できないという特徴がある。このような分析手法は経済や社会の動向のある部分を説明できてもその対策を示すものではない。また「規制緩和を行って、すべて市場に任せればよい」という、市場原理主義が健全な資本主義育成に有効に機能するとはおもえない。同じように「政府」と「市場」の対立図式も5年以上低迷する日本経済のある面
の説明には役立つかもしれないが、経済を浮上させるための前向きな議論とはなり得ない。
2.制度を形作る国民の価値観
資本主義、市場経済を本研究委員会では「制度間競争」としてみたわけであるが、この解明はもちろん困難がつきまとった。報告書を一読して市場システム変革の処方箋が直ちに得られると即断するのは軽率である。制度は一片の法律や会社組織の変更によってできるものではない。歴史、文化に立ち返って日本人と何だったのか、日本は世界にどう関わっていくのかという検証が制度問題を考える上で必要である。この必要性については本報告書で多くの委員が言及しているところであり、それがマスコミで喧伝されている市場主義や制度改革論と一線を画しているところと思われる。 本委員会の委員である慶応義塾大学の池尾教授は、(制度間競争への備え、地球研ニュースレター97年10月号)でこう述べている。
『制度はストックであり、蓄積である。したがって、日々の努力の成果
が問われるのであって、日ごろサボっておいて、試験当日にだけよい成績をとるようなことはできない。国際標準の採用についても、たゆまぬ
努力の結果としてのみ可能なことに過ぎない。われわれが持っている基盤(インフラ)を直視した上で、自暴自棄になることなく、できる限り競争力のある制度を創っていくべく努力するというのが、実際的には唯一の望ましい構えであろう。』
現代の経済学にはバイアグラのような即効性はないということをまず頭に入れておく必要があるだろう。だからといって何も考えないというのでは「市場原理主義」の無責任体制を助長するだけである。目次を見てわかるように本報告書ではこれまでの日本経済の奇跡をふりかえりつつ、どうして終身雇用制、株式の持ち合い、メイン・バンク制など、これまでの成功システムが逆転して、日本経済低迷の元凶となってしまったかを多面
的に説明している。
3.安本オブザーバーの論文から
第11章、安本オブザーバーの報告、「制度の再設計で拓く日本の新しい地平-鍵を握る専門家を育む制度―」は「囚人のジレンマ」理論を駆使し、制度が経済の中で果
たしている役割とその性質に着目しつつ、制度の改革をどのように政策的に位
置づけていくかについて優れた視点を提供してくれる。氏は30ページ以上に及ぶ大論文をつぎのように締めくくっている。長くなるが是非、多くの人に読んでいただきたい部分である。
『民主主義と市場経済のチャンピオンたる米国も、つい一世紀余前までは奴隷制を内包した経済であった。南アフリカのアパルトヘイト廃止、旧社会主義国の市場経済化への転換はここ数年のことである。大規模な制度の転換は、何故起こるのだろうか。制度によって規定された経済諸関係の変化が制度を転換させるには違いないが、大規模な制度の転換は、そうした変化がイデオロギー(価値観)の変化まで高まって、初めて可能となるとみるべきではなかろうか。
わが国も、この一世紀半の間に、明治維新と敗戦・連合軍による占領という大きなイデオロギー変化の機会があった。しかし、そうした経過を経ても今なお根強く生き残っているのは「和」の思想ある。戦国の世の下克上と大名間の覇権争いは、典型的な「囚人のジレンマ」の状況である。戦国の惨害を目の当たりにしてきた徳川政権にとって「和」は、「囚人のジレンマ」から人々を解き放つ、何者にも代え難い価値を有していた。これが敢えて「公正」を度外視した「喧嘩両成敗」のペナルティシステムを用意した理由ではなかったのではないだろうか。
「和」は日本的経営のイデオロギー的支えであり、「和」を重んじたコンセンサスによる意思決定方式は、リーガルな仕組みに関係なく、官民問わず、わが国の組織に共通
な事実上の意思決定方式となっている。コンセンサスは、情報共有化を促し、製品差別
化戦略を成功させた。だが「和」と「終身雇用」に裏打ちされた組織内のコンセンサスは、時に異なる意見封じ込め、関係者の責任感までをも希薄化させ、馴れ合いを生じたことはなかっただろうか。対立した意見があるときは両者の「顔」を立てコンセンサスに到達するよう、悪知恵と清濁併せ呑む度量
(調整能力)が本領を発揮する。その結果、決定過程と決定理由が不透明になり、問題の本質的解決が先延ばしされることも少なくなかったのではないだろうか。
「公正」や「透明性」を確保するには執行費用がかかるし、緊張も強いられる。それでも、革新的技術や新事業への挑戦が行われ、リスク管理が重要となる経済では、情報化維持やコーポレート・ガバナンスの強化は、効率性と経済・技術フロンティアの拡大にとって、どうしても進めなくてはならないことのように思われる。日本的経営の中にある「和」の思想が「同質性」の中にしか存在し得ない「和」から「多様性」や「異質性」を包含する、より高次元の「和」にどれだけ進化していけるのか、それが来るべき世紀における日本の運命を定めるようにおもえてならない。』
4.委員会名簿(敬称略、五十音順)
委員長
奥野 正寛 東京大学経済学部教授
委 員
安生 徹 (社)経済同友会常務理事
池尾 和人 慶応義塾大学経済学部教授
伊藤 秀史 大阪大学社会経済研究所助教授
猪木 武徳 大阪大学経済学部教授
岡崎 哲二 東京大学経済学部助教授
小島 明 日本経済新聞社取締役、論説副主幹
田中 俊郎 慶応義塾大学法学部教授
専門委員 神林 龍
東京大学大学院経済学研究科博士課程
橋本 優子 東京大学大学院経済学研究科博士課程
講 師
安部 義則 日本電気(株)資材部協力会社企業相談室長
三国 陽夫 (株)三国事務所代表取締役
森下 一乗 (株)パソナブライトキャリア代表取締役社長
綿貫 健治 ソニー(株)渉外部門国際渉外部統括部長
オブザーバー 熊野 英昭
元通商産業省事務次官
久武 昌人 通商産業省資源エネルギー庁石油企画官
松島 茂 前通
商産業省大臣官房企画室長
安本 皓信 前衆議院商工調査室長国際協力事業団理事
5.報告書目次
第1章 (概要)日本の経済システムの改革の方向
事務局
第2章 対談 日本経済の課題と将来の展望
奥野委員長
熊野オブザーバー
第3章 市場における政府の役割 柳川委員
第4章 日本の業界団体:歴史的パースペクティブ
岡崎委員
第5章 金融制度改革とコーポレート・ガバナンス
池尾委員
第6章 投資家の視点から見た会計制度 三国講師
第7章 規制緩和後の労働移動システムについて
森下講師
第8章 労働力の流動化について
神林専門委員
第9章 世界の市場経済化とグローバルスタンダード
小島委員
第10章 これからの競争を考える 猪木委員
第11章 制度の再設計で拓く日本の新しい地平線
安本オブザーバー
第12章 国境なきヨーロッパ 田中委員
(事務局 中西英樹)