現在、開発にとって最も重要な課題は、環境破壊からの脱却であろう。発展途上国は、開発と環境の問題について、貧困こそが環境破壊の原因であると主張している。そして、これまでの環境破壊は先進国が引き起こしたものであり、今になってその責任を発展途上国に押しつけ開発の足を引っ張るのはおかしい、また発展途上国には開発の権利があり、環境破壊から脱するには、貧困・人口爆発・環境破壊という「低開発の悪循環」から抜け出すこと、すなわち経済発展が必要だとしている。
しかし、「低開発の悪循環」によって環境破壊が生じているかというと、必ずしもそうではない。たとえば、ブラジルにおける「土地なき民に土地を」という聞き心地のよいスローガンのもとで進められたアマゾン開拓、あるいは、インドネシアにおける土地なし農民を周辺諸島の未開拓地に入植させ、生活の向上を図ろうとしたトランスミグラジ構想などがもたらした環境破壊は、貧困とは無縁ではないものの、貧困の当然の結果 として生じたものではなく、土地問題をそのままにして行った、貧困を解決するための「誤った政策」によるものである。
確かに、貧民が生活維持のために行う焼畑・過放牧が自然環境を破壊し、発展途上国の都市のスラム化をもたらし、貧困による人口爆発を起こしているという「低開発の悪循環」が認められるのは事実であるが、経済発展によって貧困が解決できるか、環境を守れるかには、疑問がある。
まず、貧困は開発によってなくなるわけではない。たとえば、熱帯材貿易のための商業伐採について見てみると、伐採権を有するのは有力政治家、軍人、資本家などであって、開発の利益はそこで生活する貧民には届かない。また、世銀・IMFが累積債務国の経済を立て直すために行った構造調整借款は、一部の輸出向けの超近代的な非伝統産業を潤しただけで、国際競争力のない多くの企業を倒産させ、大量 の失業を生み、福祉予算のカットや公共料金の引き上げによって大衆の生活を直撃するなど、貧民の大きな群れを生み出した。さらに、土地分配の不公平をそのままにした食糧増産(緑の革命)、社会構造や国内の必要・国内市場の育成を考慮に入れず行った輸出用農作物増産政策(ダム政策)、工業化政策はいずれも失敗し、かえって貧富の差を拡大する結果 に終わっている。
発展途上国の貧困は、国内の分配の不公平のもとになっている土地所有・社会組織などにメスを入れなければ、決して解決しないのである。このような経済発展は、貧困解消の決め手にならないばかりか、それ自身が環境破壊の原因でもある。たとえば、工場進出は仮に公害防止の措置がとられても大気や水の汚染を付け加え、ダム開発は仮に自然環境に負荷の少ない方法が取られても、森林を水没させて環境破壊を負荷する。そして経済発展が、いままで貧困なため遅れていた下水道の整備や貧困を原因とする自然破壊に歯止めをかけても、全体として考えれば、地球環境を保全することにプラスに働くかもしれないが、その保障はない。それどころか、開発によるマイナスは確実であるのに、経済成長による波及効果 としての環境面のプラスについては、本当にどの程度起こるかなどについての検討さえ十分ではないのである。
ところで我が国の従来型ODAは、発展途上国の上記要求に沿い、「低開発の悪循環」と抜け出させるため、その経済成長を助けることを主眼としていた。そして、従来型ODAは、貧困=富の分配の不公平については、土地の再分配を条件とするなどはおろか、その他問題にもほとんど手をつけないで、途上国の国内問題として片付けてしまっているのが実情である。
また、従来型ODAは、先進国が大量 生産・大量消費から省資源・リサイクルを目指した循環型社会に移行する一方、発展途上国は経済成長によりストックを増やし、先進国と発展途上国の富の再分配を実現しようというもののようである。しかし、このようなシナリオは、先進国のCO2排出抑制すら目標値に達するメドがつかず、現在の環境破壊もすでに十二分であるのに、発展途上国による新たな汚染を付け加えるだけである。現在の環境破壊は、過去の汚染行為の結果 であって、将来の予測は不可能であり、手遅れにならないうちにできる限り速やかに環境保全の措置がとられなければならない。発展途上国が開発の権利を主張するのも、今度は自分達が環境破壊をする番だと言っているわけではなく、失敗と行き詰まりが見えている先進国の後追いをしたいということでもない。彼らが本当に言いたいことは、先進国との間の富の分配を公平にし、国際間の均衡をはかるべきだということである。
そうだとすれば、アマゾンの緑を保全するための援助(再生の森構想)や環境コストの内部化とともにする途上国への環境支援など、環境保全をはかりながら、先進国と発展途上国の均衡をめざす新たな政策が模索されなければならない。