必要があって、鶴見和子著「南方熊楠-地球志向の比較学」を読み直したところなので、それを題材にさせていただこうと思う。
南方熊楠については、最近はテレビなどにもしばしば取り上げられるので御存知の方も多いだろう。仕事からみれば民族学者というのが最も適切かもしれない。しかし、粘菌と呼ばれる植物のようでもあり、動物のようでもある興味深い生物に強い関心を持ち、採集や研究をしているので生物学者の側面 も持つ。また有名な活動として神社合祀反対運動に大きな精力を傾けたので環境保護運動家とも位 置づけられる。因みに神社合祀とは、市町村の合併に伴ない、合併前の単位 で存在した神社を統合しようとした明治政府の政策である。日本の神社は、鎮守の森と呼ばれる森林におおわれているので、神社をこわすと言うことは、とりもなおさずそれをとり巻く森林を破壊することになる。鎮守の森は大きな樹木から成っているので、伐採して売却することによって利益を得る人が出るところから、推進の力は強かった。それに対して南方熊楠は、長い間その土地にあった植物が失われること、それによって生態系が壊れることを憂えて合祀に反対したのである。植物が失われるだけではない。神社が消えることによって土地に根づいた信仰が損なわれる危険もある。また村の寄り合い場が失われて、村の人々が自治が衰え、文化が消えていくことも心配だった。まさに、自然と人間生活とが一体となった文化の喪失を、阻止しなければならないという気持ちにつき動かされて、反対運動をしたのである。
民族学、生物学、環境運動などと言って彼の仕事を一つ一つあげていくと複雑になり、一体どういう人なのかわからなくなるが、一人の人間として納得のいく生き方をしようとした結果 、たまたま行ったことがそのようなものになってのではないだろうか。今、私たちが地球文化という言葉で狙っているのは、まさにこのような活動だろう。
実は、南方熊楠の残したものは、標本、手紙、論文など雑多で、そのまま眺めただけでは、その意味を捉えるのが難しい。それを鶴見和子さんが、見事に解読し、整理し、現代の中に生かした形で、彼の思想を提案して下さったのだ、それがまさに、私が生命科学研究の立場から地球産業文化研に望みたいと思っていることと驚くほどピッタリなのである。そこで、私のようなヘナチョコの意見としてよりも、南方熊楠、鶴見和子という偉大な先達の見方として紹介するほうが影響力も大きいのではないかとズルイ考えを抱いて、ここに列挙させていただくことにする。
第一は、「対話」である。南方の仕事を民族学、生物学などと紹介したが、それを発表するにあたって彼は、多くの場合、堅苦しい論文という形式よりは、様々な人々との問答を選んだ。自らも質問し、また多くの質問にも答えるという作業を絶えずくり返したのだ。一方的に伝えるのではなく常に対話する。南方がイギリスに留学している時は、実際にその地の人たちと対話したが、帰国して「那智」というどちらかといえば辺ぴな場所に住むようになってからもこの行為は続けられた。雑誌の投稿欄に意見をどんどん送ったのだ。情報化時代の先取りとも言える。ここで重要なことは、彼が常に発信人であったことだ。
第二のポイントは「新しい普遍主義」と言えるものである。これまでの普遍は、実はヨーロッパという限られた地域で生まれた思想と、それを基礎におく科学や科学技術を通 して具体化されてきた。しかし、ヨーロッパ以外の地域、たとえば中国やインドにも独自の科学や技術文明が存在した。それらにも眼を向け更に広い普遍を求める作業を南方は行ったのである。現在は、文化相対主義の時代であるが、その底に更に普遍を探ることは、次の知の方向の一つだろう。
そして第三。鶴見さんはそれを「地球は一つ、されど己が棲むところにありてそれを捉えよ」というみごとな言葉にまとめている。地球全体を見る視点を持ちながら、具体的には故郷の神社の森の問題に全力を注ぐという南方の姿勢は、地球環境問題への取り組みのあるべき姿と重なってくる。
そして第四。「自然の環境の法則を取り入れた新しい技術の開拓をめざす」ということである。現代生物学は、人間も他の生きものと基本的には同じメカニズムで動いていることを解明し、われわれが心地よく生きようとして産み出す技術が、自然界のメカニズムと合っていなければ、人間自身がうまく生きていけないことを明らかにした。それを南方は早くから指摘していたのだ。
日本に、このような見識を持つ人がいたということを誇りに思うと同時に、その知恵を生かしきれずにここまで来てしまったことを残念にも思う。
今からでも遅くない。地球産業文化という言葉の中に先人の知恵をこめ、更にそれを発展させたと思う。