今から750年ほど前、中国・杭州の護国仁王寺の住職だった無門慧開は、修行僧のために禅のテキストとして有名な「無門関」を書いた。この本は無門慧開禅師に師事したわが国の僧、心地覚心(後の法灯国師)によって持ち帰られ、国内でロングセラーをほこっているものである。筆者は日本が環境立国するためには、市民が宇宙と生命の真実を認識し、有限な地球で豊かなエコライフをどのように実現してゆくかを学ぶための同様なテキスト、現代の「無門関」が必要であると考える。周知のように無門関には48の公案が集録されている。それぞれの公案について、無門慧開の批評と短い詩句のようなものが付けられ参学するものの便宜が計られている。公案には定まった解答はなく、自らの全体験によって解答を絞り出し、それを先生に認めてもらわなければならない。従って難解であり、受験参考書の丸暗記ですますという訳にはいかない。例えば無門関の第一則は趙州狗子の公案である。「犬に仏性が有るか」という修行僧の質問に対して趙州和尚は意外にも「無」と答える。この公案をパスするのは容易では無いようで、無門慧開も6年を要したと本に書いてあるくらいである。
ところで筆者の専門は元々材料科学であり、近年は環境適合設計(エコデザイン)、環境調和材料(エコマテリアル)、環境ラベル、環境マネジメント等によって、環境立国(あるいはエコ・ジャパン)を目指す事が最大の関心事である。仏教に関心はあってもそれを専門に研究したり、深く信仰している訳ではないことは言うまでもない。しかしながら無門関や、碧巌録、臨済録等の禅のテキストに述べられている仏教思想は、環境の観点から筆者には大変魅力的に思えるのである。20世紀の工業文明は、一般的には「地球限界」を考慮することなく大量生産、大量消費、大量廃棄を続けて来たことが批判されている。その根底にはヨーロッパ由来の人間中心主義や物質的欲望の果てしなき追求を善とし、排他的所有権を許容する価値観があることは間違いないであろう。仏教思想には、人間も生態系の一部である事を自覚させ、欲望を抑制して足ることを知り、そして社会のために献身的に働くべきであると勧めている所があり、それは正にエコ・ジャパンのビジョンを支持するものである。
それでは、公案にはどのような目的、効能があるのであろうか。その奥深い意義は専門外の筆者には到底理解不能であるが、松原泰道先生などの一般向けの解説書を参考にして次のように乱暴に分類できるのでは無かろうか。宇宙の中の奇跡的な存在である自らを認識させるのが「麻谷風性常住」、「洞山麻三斤」の公案、真実の自分に呼びかけるのが「巌喚主人公」、認識がどうあるべきかについては、無を見て来いと説く「趙州狗子」、無常と常住が別次元では無いと説く「大龍堅固法身」、一所に心を止めぬ工夫を説く「雲厳大悲手眼」、自己の延長上に他者を見つめる「百丈野鴨子」、相対以前の絶対を凝視させる公案が「不思善悪」であろうか。また山川草木の声を聞けという「無情説法」の公案もわれわれ日本人には親しいものであろう。日々どのように行動すべきであるかについては、今日この時自分がなすべきことについて全力を挙げていくことを説く公案が「趙州銑鉢」、「平常是道」、「日日是好日」であり、因果律に従いながら因果律をリードすることを説く「百丈野狐」、無所得の修行が重要であることを説く「南嶽麿磚」の公案であろう。十牛図でもそうであるが、悟境の最後に位置付けられているのが社会公共のために献身的に働く事であり、臨済録に言う所の「十字街頭に在って、また向背なし」の境地である。無門関の公案、48則は、あるプランに従って整然と列べられている訳ではないようであるが、これをパスすることによって円熟した人格と社会的救済に積極的な人物が得られるような気がするのは筆者だけではあるまい。
それでは現代の「無門関」の公案とは一体どんなものであろうか。筆者は以下のような問題が現代を生きるわれわれ一人々に公案として突き付けられていると思う。
|
われわれは現代のこれらの公案に全身全霊を挙げて向き合わなければならないであろう。刻々と劣化する地球生態系を直視することは、正に無情説法を聞くことに他ならない。世界の貧困者を思うことは百丈野鴨子の公案に通ずる。国内では幸いISO14001を取得したサイト数が1万を超え、エコプロダクツの年間生産額が38兆円に達した。正に十字街頭にあってまた向背なく、環境立国のために活躍する人々が増加していることの証である。
願わくばすべての市民が現代の「無門関」の公案に全力を挙げて向き合い、エコ・ジャパンのサポーターでありプレイヤーにならんことを。
中国・杭州にて |