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ニュースレター
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1994年5月号 |
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これからの文明グローバリゼーション(財)地球産業文化研究所 基本政策委員会 人類にとってかけがえのない地球生命体ガイアを守るために、懸命の協調が今ほど必要なときはない。それなのに、世界各地で国際紛争・民族抗争が多発し、また経済摩擦はますますその激しさを増している。とくに、日本とアメリカとの間で、いちだんと険悪な雰囲気が漂っていることは、ご承知のとおりである。 そこではたんに貿易の不均衡、日本の黒字大国化といったことが問題になるだけではなく、いわゆるジャパン・プロブレムなる構造上の差異が、大きな関心事となっている。日本の社会経済の仕組みが効率(生産性)に関して優れたものであるとしても、そのシステムが日本だけに限られた特殊なものであり、他者が容易に入り込めない閉鎖性をもっている、というのである。日本というのはフェアーな自由競争のできない体質をもち、しかもその体質が外側からよく見えない点がとくに問題だとされる。 たとえば、日本に顕著だとされる企業間の系列化や排他的取引の慣行は、レッセ・フェール原則にのっとる経済システムの側からは不可解なものに見えるのである。そこで、チャルマーズ・ジョンソンの「資本主義的発展指向型国家」日本という説明図式が生まれ、どの社会にも普遍的に適用可能だとする欧米正統派の経済理論の修正を求めて、リビジョニズムが始まった。しかしこの修正主義でも明らかだが、比較の判断基準はつねに欧米側に置かれている。この立場からすれば、日本はあくまで異質なのである。こうした日本異質論をベースにしてジャパン・バッシングを主張する人たちが、いわゆるリビジョニストと称されることになった。 最近では、このリビジョニズムは、資本主義の対立する二類型として論じられるようになった。第一の型は、長期的取引関係と法人間の株の持ち合いを基本とする日本型資本主義であり、第二のタイプは、市場メカニズムの自律性に期待する自由主義的(アングロサクソン型)資本主義である。ごく最近では、それが文明レベルにまで拡張され、西欧文明と非西欧文明との対立抗争を考えるまでに至っている。それを提起したS・ハンチントンのやや過激な論議では、日米間の経済摩擦もこの文脈の中で論じられている。 ハンチントンによれば、普遍的な文明が存在するという考え方そのものが西欧的思考なのであり、今後、当面 の間は、普遍的文明は登場せず、むしろ多様な文明によって世界は規定される、という(「文明の衝突」中央公論、1993年8月号)。この文明相対主義は、欧米中心主義への回帰をはばむ意味では妥当だと思う。しかし現代文明の特質をつかむ上では必ずしも十分ではない。絶対普遍ではなく、互いの相対化が不可避だとしても、当該のシステムがそれぞれ自立した個別 の存在にとどまるという認識では、複雑な現代を解き明かすことはできないだろう。相互の関係性がもう一つのポイントとなる。「相対」と「関係」がこれからのキー・タームとなるとオギュスタン・ベルクも言っている。 この「関係」を伝統的に重視してきたのが日本であり、また東アジアの諸国であった。ことに日本文明の特質は、ひと相互の関係性(間柄)に基盤にして社会が編成される点にある。日本的経営の特徴である小集団活動(たとえばQCサークル活動やZD運動)などは、その典型例となる。日本の組織は、よく誤解されるのだか、全体への帰属としての「集団主義」によって運用されているわけではない。実際は、組織内の人間関係に配慮し、ともども力を合わせようとする「協同団体主義」に基づいている。そこでは、組織とその成員とは、イソギンチャクとクマノミという魚との間に見られるような相利共生関係で結ばれている、と言ってよい。 一般 に、関係性に注目する考え方は、従来の個体性ばかりを重視する方法よりも、現実をよりよく説明しうるだろう。社会システムは、個体の単なる加算的集合ではなく、個体間関係のネットワークだからである。それを構成する人間は「個人」ではなく、実は「関係体」(relatum)とでも言うべき「間人(かんじん)」なのである。こうした新しい人間モデルを、東アジアからの発想として、欧米に向けて提示したいと思う。 文明の相克を回避するために互いの相対化をはかることは、差し当たり必要な措置である。しかしもっと積極的に、現代の要請でもある「個別 体」から「関係体」へのシフトを試み、その新しいパラダイムでもって国際関係に対処すること、それが今後の文明グローバリゼーションの課題となるに違いない。 |
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