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ニュースレター
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1994年8月号 |
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「激変するバタム島」東京大学名誉教授木村 尚三郎 5月末、シンガポールから南へジェットフォイル船で45分、インドネシアのバタム島に渡った。二度目の来訪である。そして、一度目とのあまりにも大きな違いに、我が目を疑う有様であった。開発に次ぐ開発で景観が一変しているからである。 もともとここは、うっそうたる密林の生い茂る赤土の島であり、コブラと猪とサルの天国であった。ところどころ椰子の林の下に小さな村があり、観光客がやってくると、ハダシの子供やサルがするすると高い椰子の木に登り、実を取りそのジュースを飲ませてくれる。漁業の他にはそれくらいしかすることがなかった島である。 二年前には大勢のハダカの子供たちが観光のアメリカ人老夫婦のあとをゾロゾロとついて歩いていた。老夫婦は気味悪がり、「お母さんのところへお帰り」としきりに英語で云うのだが子供達には通 じない。追っても追っても黙ってついてくる。それがどうだ。今回は小さな子どもたちのほうから声をかけてくる。「アンニョンハセヨー!」島には日本人はあまりこないが、韓国人が沢山くるからである。中央通 路を、韓国の代表的自動車メーカー「現代」が造り、韓国資本が投入されている関係によってである。 因みに自動車、タクシーの類いも以前よりグンと増え、猛然たるスピードで走っている。しかも無免許運転が多いとの話であり、車検制度も無く、信号機は今のところ島にたった一つという状況であるから、危険といえば危険である。しかも交通 事故に遭ったり、コブラに咬まれて、三時間以内の治療が不可欠の場合に、病院は島に一つしかない。警察も一つ、モスクも一つ、町(ナゴヤ)も一つ、何でも一つの島である。 私たち夫婦と、社会経済生産性本部の方二人が韓国語の挨拶にソッポを向いていると、今度は「ニーハオ」と、子どもたちは中国語で声をかけてくる。それにも私たちが反応しないと、最後に「コンニチワ」と日本語がでた。決して浮浪児でも乞食でもない。小ざっぱりした身なりの村の子であり、外来の客に対してニコニコと笑顔を浮かべている。ああこれが本来の国際感覚だ、日本人の私たちより上等だと、今回つくづく思った。子供達はちょうど学校が休みの期間だったが、二年前の「無言」状態から較べると、あまりにも著しい「進歩」であった。 バタム島には現在、15万人の就業者がいるが、その六割が女性である。工業用地に工場ができ、その工員として働きにきているからである。ガイドの話では、15万人のうち日本人は、わずか250 名とのことであった。 今回行って驚いた点は、密林を切り拓いた広大な土地に「バタム・センター」ができつつあり、ショッピング・センターをはじめホテルやしゃれた一戸建住宅群が次々と建設されている姿であった。これではコブラもたまったものではない。いずれ海を渡って別 の無人島にでも集団移動かとコブラの受難を思いやらざるおえなかった。 バタム島のいわば土埃を上げての猛烈な産業化、近代化には、アセアン諸国の特性がよく活かされている。それは南シナ海を中心とする地域、国々に特徴的な「共生」の感覚である。南シナ海は鏡のように靜かな海であり、古来交通 が活発に行われてきた。そこから、言語、風俗習慣、宗教その他の違いは違いとしながら、相互に兄弟の関係を契り結ぶ感覚に優れており、それがバタム島の場合にも見事に発揮されている。 すなわちインドネシア政府はバタム島の土地を提供し、シンガポールはそこに資金を、そしてマレーシアは食糧を供給するという形での、三国間の協力関係が成り立っている。これが島の猛烈な産業化、近代化を促してきた。2008年を目指すAFTA(アセアン自由貿易圏)は、必ずその姿を浮上させるに違いない。もう一つの秘密は冷房装置の普及である。これはバタム島に限らず、東南アジアすべてについていえることであるが、冷房の普及により年間通 しての猛然たる暑さから解放されれば、人びとの頭脳も身体も、それこそ猛然と働き出す。冷房普及と東南アジアの近代化、産業化とは、密接、不可分の関係にある。 古来からある交流・共生のコミュニケーション感覚に、いま産業化の火がともり、冷房装置が大規模に普及するに従い、東南アジアの今後の発展は、いわば気分、体力ともに目覚しいものがある。だから、アメリカが主導するAPECをもはね返すエネルギーを内包するのであり、いま全世界的に見られる、繁栄の「西と南」への移行現象の典型がまさに、東南アジアにある。それを痛感させてくれた、バタム島訪問であった。
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