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1995年10月号

高度情報化研究委員会補稿(2)

−高度情報化と日米、そしてアジア−


4.日米文化の違いと高度情報化

 現在高度情報化の進展状況を日本と米国で比較すると、圧倒的に米国の方が進んでいると言われている。例えば、人口単位 当りのコンピューター端末の普及状況を見ると、1位は当然米国であり、日本は何と17位 となってしまう。ちなみにアジアでのトップはシンガポールで15位に位置する。また、CATVの普及も、米国の方が圧倒的に高い。(これには、米国が国土が広大で空中波が届かないという地理的な条件もある)更に、コンピューターのハード面 では、日本にも富士通、NECを始めとする名だたる企業が存在するがソフト面 あるいはアプリケーションの分野になると、現状では圧倒的に米国の方が先行している。この分野での日米格差に関しては様々な理由が挙げられている。例えば、創造的技術開発能力の差であるとか、ベンチャー企業を起こす企業家精神、それをサポートするシステムの有無であるとか、更には日米の社会構造の違い、文化の違いというところまで挙げられている。この分野での技術それを支える利用環境において米国の力は強大で、日米の技術格差は再度拡大し、日本は米国にしばらくのあいだ勝てないだろうという意見が強い。また、米国も過去の学習効果 から、今度は過去の様に日本に技術を与えてはくれないとの意見もあり、将来を見通 したとき日本では、この分野に関し総じて悲観論が強いように思われる。

 これからのキー・テクノロジーである高度情報化技術・利用分野に関して、日本は米国に圧倒的な差をつけられてしまうのであろうか。この点に関して少し視点を変えて、日米の文化の違いという観点から考えて見たい。

 まず文明と文化の違いについて、日置弘一郎著「文明の装置としての企業」(有斐閣)の記述を借りて説明してみる。日本では社会科学・人文科学の伝統として、ドイツ哲学の影響が強く浸透しており、物質文明と精神文化という定義が一般 的である。一方英語では、文化にCulture、文明にCivilizationという言葉を当てはめるならば、語源としてはCultureは耕すという言葉に由来して農業に関わり、Civilizationは市民(Citizen)となり都市化と関連する。英語の語源では、カルチャーがハードウェアで、シビリゼイションはソフトウェアに関連した言葉となり、日本語での文化と文明という言葉と逆の意味を持っている。この様な語源と用法の逆転現象はあるものの、文明と文化の違いを説明するとき、ハードウェアとソフトウェアという区分から説明することは有効であるように思われる。文化という概念を物質の制約から逃れた自由な精神活動の領域として考えると、この区分はより明確になる。文化が芸術や宗教・学問といった領域の問題として扱われるのは、このような意味で理解することができる。これらの領域は物質的な基礎を持っていてもそれらは二義的である。例えば、音楽で考えると主体はメロディーであり、使用する楽器がその音楽の価値を決定する訳ではない。

 しかし他方では、文化もハードウェアの制約から完全に自由ではなく、自由な精神活動と思われていた人間の思考が意外に物質的、身体的影響を受けている点が指摘されている。後者の考えからすると、生活のレベルでの仕組み・制度に関わる部分も文明の一部に組み込まれることになる。すなわち、文明の範囲をハードウェアを機能させるためのプログラムまで広げて捉え、文化の範囲をそこから発揮される個人の自由な精神活動と限定するとの考え方である。文明の様々な要素は、ハードウェアの運用に関する基本プログラムを組み込んでいる場合が多く、これを含めたハードウェア全体を文明と定義することにする。そうすると文化は固有な意味でのソフトウェアに限定されることになる。最近ではコンピュータの世界でも、登載されるプログラムの基本部分がハードウェアに対応し、特にOS(オペレーティング・システム)については、ソフトウェアがハードウェアに組み込まれている。このような状態はハードウェアとソフトウェアの中間という意味で、ファームウェアと呼んでいる。文明の諸要素は、ハードウェアを運用する基本プログラムを組み込んでいる場合が多い。この部分を文明に属するものと定義すると、これまで文化摩擦といわれてきたもののかなりの部分が、実際はファームウェアの領域で起きていると捉えることも可能である。すなわち、人間精神の自由な発露としての文化は互いに認め合うしかなく、差異を確認し、相手を理解するように努めるという解決策しかない。一方文明については上で述べた定義に従えば、ハードウェアであるかぎり共通 であり、交渉によって統一することが可能である。すなわち、ルールを定めれば、場合によってはハンディキャップをつけることも必要になるが、互いに受けいれることは可能である。問題はファームウェアという文明と文化のグレーゾーンで生じる摩擦である。この解決は互いの文化を認めたうえで、折り合いをつける、あるいは解決の糸口を探るということになるのであろう。

 今後高度情報化という流れがグローバルに進むと考えたとき、ネットワーク化によって時間的、距離的空間が圧縮され、身近に異文化が飛び込んでくるような状況を想定すれば、文明と文化の違いを理解した上で、現実に文化の違いから発生する問題を考える。あるいは対応することが必要になると思われる。ことさら文化を全面 に掲げそれを固執することは問題の解決を遠避けることになる。一方文明の側でも、従来あったルールが万能かというとかならずしもそうではない。時代は常に動いており、その時代に合ったルールはまた検討されるべきものである。以上のような前提を置き日本と米国の文化的相違について考えを進めてみる。

 東南アジアを旅行してみると、日本とアメリカの商品を身近に見ることができる。日本の代表選手には、自動車、家電製品などが挙げられるが、私の印象に残ったのはカラオケである。主要な都市でお酒を飲む店では驚くほど普及している。色々な国の人が色々な歌を唱っている。カラオケというと日本の文化的特性を反映した典型的なものと思っていたが、実は違うのである。この地域では鮮やかに文明商品に変身している。これは、カラオケ装置というハードウェアにその国の歌という個別 のソフトウェアを乗せていると見ることができる。カラオケは日本で生まれ海外に広がっていったものだが、カラオケ自体からは日本を感じさせるものは何もない。そこに日本の商品の特徴を見ることができる。

 一方、アメリカの代表選手はマクドナルド、ケンタッキーに代表させるようなファーストフードの店である。東南アジアの主要都市で日本と同じ看板をよく見かける。店に入ると日本と同じように、カウンターに立つ女の子は高校生風であり、システムも同じように運営され、言葉と顔立ちを除けば日本と何ら変わらない。食べている人も家族連れ、高校生、0Lといった具合いでこれも日本と同じである。ハンバーガーはアメリカの食文化そのもののような商品であるが、東南アジアでも広く受け入れられているように見える。それはハンバーガーというアメリカ固有の文化商品が、時代の流れに合致した例と考えられる。この背景には、近年東南アジア諸国における経済成長との関係があると思う。ともかく、東南アジアの市場で見受けられるものは、日本という顔は見えない文明商品と強く自国をアピールするアメリカの文化商品の対照である。

 この両者の対照の元には、日本とアメリカ歴史、文化の違いというものが考えられる。アメリカは歴史的に考えれば若い国である。そして移民の国であり、多民族国家である。文化、宗教、言語が異なる多様な人々から構成される社会である。したがって、多様な人々を国家として一つにまとめて行くためには共通 の基盤が必要である。そしてそのためには、常に共通化・普遍化というモーメントが働く。自分達が作ってきたルールは他に較べればより普遍的だという思いがある。逆にそのモーメントが止まったら、アメリカ自身内側をまとめていくことはできなくなる。彼らはそれを意識しているかどうかは判らないが、そういう圧力が潜在的に働くため、外に対しても自分たちの持つルールを適用させようという力が作用する。したがって、商品でも、あるいはそれを付随するシステムでも、相手の文化を配慮するというよりは、アメリカ文化そのものを相手国に持ち込み商売するという形態を取ることになる。

 一方日本は、単一民族からなる同質化した社会である。歴史もそれなりに古くその中で文化を育んできた。同質化した社会だけに、日常生活ではアメリカのように法律のお世話になることもあまりない。法律よりも社会的規範、暗黙の了解といったものが主要な位 置を占める。日本文化の特徴を一言でいうとすると、それは受容する文化であるということである。例えば、我々が書く文章は漢字、ひらがな、カタカナの3つで構成されるが、これは中国から伝えられた漢字を改良してできたものである。このように日本は外から来た文化を時間をかけ改良し自分のものとしてきた。ここでは自らの文化を絶対的な基準として考えるのではなく、他に良いものがあればそれを受け入れ同化していくという働きが見受けられる。アジアの国の中でいち早く産業革命を成し遂げたという理由も、その辺に理由があるように思われる。また、戦後日本が貿易立国としてここまで発展してこれたのも、背景に日本文化の特性があったと考えられ、それが日本の商品を世界の様々な文化に対して浸透力を持つ文明商品にしていったのである。

 このような日米の特徴を踏まえ今後の高度情報化の進展を考えた時、日本と米国のどちらに分があるのだろうか。この情報化の流れが新たなフロンティアを切り開くものと考えれば、またその目的に対して技術突破型が有効である時代には、米国の方に分があるように思われる。日本が持つ文化の特徴を考えれば、早急に社会を米国型に持っていくことは難しい。根底にある教育システムを変えたとしても、その結果 が出るまでには20年ぐらいのスパンが必要である。また仮に急激な変革を実施すれば、社会的混乱、諸々のあつれきが大きくなり、新たに生むものよりも失うものの方が大きいように思う。むしろこの状況で日本が考えるべき事は、自らが持つ文化的特性をいかに高度情報化の流れに生かせるかということではないだろうか。バブルの絶頂期の頃、日本の経営者たちは「もう米国から学ぶものは無い」といった発言をしていた。ある意味で自身過剰であった。ところがバブル崩壊後は一転してあらゆる事に自信を失ってしまった。この落差には驚かされるが、一連の流れの中で我々は日本が持つ良さを見失ってしまったのではないだろうか。自信過剰も困るが自信喪失も当たらない。今我々に必要な事は、日本の文化の良いところ(外から学び時間をかけて消化し、そのて相手の状況を見極め文明商品という形に転化して世界に貢献してきた)を再認識しそれを生かすことである。

 冷静に考えれば、世界は決して単一化の方向に進んでいるわけではない。大国が世界を支配するという時代でもない。世界の貿易においても、米国が文化商品的色合いが強いものを相手国に持ち込んだのに対して、日本は日本という顔が見えない文明商品を世界に提供してきた。そうすると高度情報化の流れの中でも、日本が果 たすべき役割、あるいは領域は必ず存在するように思う。ましてこれからのネットワーク化という流れの中では、コンピューターは従来の計算の道具から人々の表現の道具へと変わりつつあり、そこには文化という要素が強く出てくると思われる。この様に考えると、ネットワークの世界を支える、結びつける力として多様な文化が必要なのである。

 世界にはその地域の気候、風土を反映した多様な文化が存在する。生命の多様性と同じように、固有の文化には各々に存在意義がある。そしてその多様性こそが、状況の変化に対応し次なる展開を生む原動力なのだと思う。過去にその主たる役割を果 たした文化もあれば、また未来にその役割を果たす文化もある。その比重は時代によって異なるであろうが、それぞれの文化が果 たす役割があるように思う。そのように考える所に日本の将来への道があるように思う。

5.アジアネットワーク

 現在アジア経済が急拡大している。戦後のアジアで日本に始まった経済成長は、その次に台湾、韓国、香港、シンガポールのアジアNIES諸国に広がり、そしてまたASEAN諸国に広がるといった具合いで、東アジア全体に経済成長の環が広がりその好循環が現在も続いている。しかし将来を見渡せば、楽観的に将来を考える事はできず、そこには資源の問題、人口の問題、環境の問題等克服すべき種々の問題が横たわっている。また、現在の成長が、従来の日本がとったようなキャッチアップ型の成長路線であれば、いずれ限界を迎えることは明かである。一方米国には、フォーリン・アフェアーズに「アジア経済幻の発展論」を書いたポール・クルーグマンのように、アジアの成長に対して冷めた見方もある。たしかに過去の西欧型の発展から推していけば、言っていることはそう間違っていないように思う。しかし現状を見渡せば西欧型とは異なる展開の可能性があるのではないか。アジアには様々な民族が織りなす多様な文化がある。また従来の産業化とは異なる高度情報化という潮流が現れつつある。それらが織りなす新しいパターンは、従来のパターンとは異なる可能性を生むような気がする。それが現実のものとなるかどうかは判らないが、少なくてもその可能性はあるように思う。

 また従来のモデルでは、産業が高度化していくためにはかなりの時間を必要とした。しかし現在のアジアを見ると、半導体もあり自動車もありといった状況が見受けられる。この現象を考えると一つの推論が導きだせる。それは先発する先進国が技術の限界を迎えたということである。もつろん開発すべく巨大技術は存在する。しかしそれは一企業、一国家でさえ手に余る代物である。そうすると後発の国と先発の国の技術的差がどんどん縮まってくる。従来の形では必ず技術的にリードする国、地域があり、そこの産業が強かった。しかしそこの差が縮まってくると、特定の国に立脚した産業資本主義よりも、どこの地域が有利か判断して機動的に資本を投下していく商業資本主義的な考え方が有利になってくる。そしてこの地域には、かつて中国を離れてこの地に根をおろした華人のネットワークがある。その人々が仲立ちすることによって、二次産業を巻き込んだ形での新たな商業資本主義が今のアジアに展開されていると考えられないだろうか。商業はどこに売るかという情報によって動く。その意味で日本にとっても、今後形成されるであろうアジアのネットワークは重要な意味を持つ。

 また日本としてもアジアの中で一緒に物を考えることは、国内の同質性の中では生まれない考えを出せるかもしれない。多様なものがぶつかり合うところに新しいものが生まれる可能性がある。その意味でアジアにネットワークを構築できれば、それは日本にとっても国内ではできない新たな道を開くことになる。

 アジア、太平洋地区を歩いて感じることは、これらの地区がある時間軸のなかに入っていることである。オーストラリアのシドニーは日本と時差1時間、マレーシアのクアラルン・プールも同じ1時間、タイのバンコクは2時間といった具合いである。ネットワーク化のなかでこれが何を意味するかというと、人間の行動は以外と時間軸に縛られるということである。ネットワークの機械は24時間動けるかもしれないが、人間はそれには対応できない。特にネットワークを通 して共同して何かをしようとするとき、時差は思考の中断を意味し効率が落ちる。できれば反応はすぐかえってきてほしい。そうするとネットワークの世界がグローバルに広がるといっても、その中で時間の軸をベースとするリージョナルな地域ができるように思う。日本が中心であるとは思わないが、東アジア、オセアニアを含めた地域はある時間のスパンの中に入る。その地域で時差にとらわれることなく共同して物事を考えていければ、新たな展開が期待できるのではないだろうか。

 アジアは現在経済成長の真っただ中にある。それぞれの国が自らの経済成長に自信を持ち始めている。しかし、従来の開発モデルではやがて限界に達することは明かである。この点に関してシンガポールのリー・クワンユーは、フォーリン・アフェアーズの副編集長との対談で次のように述べている。「我々が経済成長を実現できたのは、農耕社会から産業社会への移行をめぐる変化を促進してきたからだ。加えて西欧諸国や日本のこれまでの経験から、特定の政策がどういう結果 をもたらすかを、我々は事前に認識していた。しかし、今後はこれまでと異なる状況に直面 することになるだろう。近い将来、我々は日本並の経済レベルを達成すると考えられるが、その後は何を目指すのだろうか。どうして、目標が定まっていない状態で、その実現に向けて努力できるのだろうか?これはまったくの新たな状況である。」この言葉から推し測れば、来るべき高度情報化社会に対してアジアの国々は今横一線の状態にあると思う。アジア・ネットワークが新しい可能性を生むかどうかは判らない。しかし日本としてもそれに賭けてみる価値はあるように思う。


追記

 高度情報化補稿の1〜3章は地球研ニュースレター8月号に掲載