「文化摩擦を生ずる言葉に関する調査研究」について
平成6年度の委託事業として、標記調査研究を学習院短期大学英語センターに委託した。本委託研究の目的は、従来の「辞書」が言葉の同義性に着目して編集されているために、文明間に誤解や摩擦を生じた点に鑑み、これまでの辞書でほぼ同じとされている言語の意味が、異なる文化、異なる言語システムの中で「如何に違うか」という点に焦点を当て、英語と日本語の関係を中心に、その違いを調査したものである。また、本調査研究は「異文化コミュニケーション辞典」編集の可能性を探る予備的調査の位
置づけを持つ。
今回の調査研究の一端をこの紙面を借りて紹介したい。異なる言語が、それぞれが持つ文化等を背景にして、いかにニュアンスが異なるかという点を理解していただければと思う。
-- 髪の毛 Hair --
「どんな人でしたか。」と人物の外見的な描写を尋ねられた場合、私達は普通
どういう情報を伝えるように求められているのであろうか。もちろん年格好や風貌に関する内容を伝達することになるが、異文化においては私達の常識とは異なる情報が要求されていることが予想される。一例を挙げるならは、英語文化圏において、日本語文化の感覚で人物描写
をした場合には、「目は何色でしたか。」「髪は何色でしたか。」という質問が返って来るであろう。つまりこれは、目や髪の色が各人各様であるという事実を確認して、類型的に言語化する文化と、そうでない文化の違いを端的に示している例と考えられる。こうした言語使用上の常識を知らなければ、髪の色は何とか思い出せても、「目の色まで注意して見ていなかった」と、面
喰らうことになる。また、描写用語についても感覚のズレに基づく重要な問題が含まれる。一般
的に私達は、「日本人は目も髪も黒い」と理解しているが、英語で表現するならば私達の髪は多くの場合、"black
hair"となるであろう。
("black hair"というのは可能な表現ではあるが、特別に黒い髪をいう。日本社会では「緑の黒髪」といって髪の黒さを讃えることがあるが、そのくらい際立った場合の黒さであると考えるべきであろう。)さらに、"black
eye"というのは「(なぐられて)目のまわりが黒くあざになっている」状態を表わしていることになる。たしかに日本人の髪の場合には、白髪は別
として色合いの違いは極めて微妙であり、細かく差異化して言語化する必然性がないと言えよう。(もっとも、最近では若者を中心として茶髪〔「チャパツ」と発音するらしい〕なるものが目立ちはじめているようだが)。逆に言えば、英語において髪の色を表現する用語が微妙でかつ豊富であるなら、それだけ差異化する必然性ある文化ということになろう。実際、英語には髪に関して、黄系/茶系/赤系/黒系といった色相の違いと、濃淡の差を示す語彙が多く見られる。大体のところを押さえておかなくては、表現する場合のみならず意味解釈にも齟齬をきたすことになるので、以下主だってものを取り上げることにする。"He
is fair and blue-eyed."などと言う時の"fair"は、性格描写
の用語でなく、「薄い色の金髪の髪の」という意味だろう。また、いわゆる「金髪」はよく知られた"blond"であるが、これは特に女性の場合に"blond"綴るものとされている。金髪と時に間違えられるのが"mousy"で、茶色のややくずんだ感じの色合いの髪である。(この語を面
と向かって女性に用いるのは大変失礼にあたるので要注意。)また、"mousy"に赤みが加わったのを"aubrn"と言う。"brown"はいわゆる暗い茶色で、これにオレンジ色が加わった、明るい感じが"red"でくすんだ感じのものが、"ginger"である。"
mousy"から"ginger"までが茶系("brownish")から赤系("reddish")の髪にあたり、それぞれの地が岩微妙な場合も多い。黒髪は、上でも挙げた"dark"だが、白人女性の場合"brunette"という表現もある。日本人の少し茶色がかった黒髪は"darkbrown"であろう。白髪は"grey"(アメリカ英語では"gray"と綴られる)が一般
的であるが、明るい輝きがあると"silver"が用いられたり、かなり年配者の場合には"white"となる。このような色についての語彙の他に、直毛"straight"/ちぢれ毛"curled"/ウエーブのかかった髪"wavy"/ぼさぼさの髪"straggly"/分け目をつけた髪"parting"といった形状に関する表現も多くあり、英語による髪の毛の描写
は、私達日本人にとっては異質なものと言える程、細かく厳密である。これを、個々人の差を大切にする個人主義社会の一特徴ととらえることも表面
的には可能であろう。しかし、それだけの差を生み出してきた地理的、歴史的背景を考慮せずには、英語文化の本質に触れ得ないことを再認識する要があるのではなかろうか。髪の描写
という日常的な面から、千差万別、互いに異なるものどうしが共存していく社会、それを支えているのが英語という構図にまで拡大して考えるのは、いささか穿ち過ぎであるかも知れない。
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