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ニュースレター
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1999年4月号 |
OPINION |
環境外交と環境安全保障三菱化学生命科学研究所 米本昌平環境安全保障という概念は、冷戦後の時代の申し子と言ってよい。伝統的な軍事的安全保障と地球環境問題の脅威の類縁性を論ずる環境安全保障論は、現在の欧米ではめずらしくない。ただしその内容は論者によってまちまちであり、これが若い学問であることを物語っている。よく引用されるのは、J・マシューズの「安全保障の再定義」(『フォーリンアフェアーズ』89年春季号)という論文である。ここでマシューズは、人口爆発と地球環境問題を総覧した後、この新しい脅威に対処すべき国家主権を越える国際組織の必要性を主張している。興味深いのは、それまで有限であるゆえにその枯渇が問題とされた石油や石炭などの地下資源は経済原理が働いて底をつくことはないのに対して、森林や漁獲のように再生可能の資源の方は、収奪的な採取に対する抑制が効かず、希少資源になりつつある逆説を指摘している点である。 環境安全保障の議論は、ほぼ4つのタイプに分けられるようにみえる。第一は、一般 的に環境破壊そのものが人類にとって脅威になりつつあり、実際に生命財産を脅かす恐れがあるとする立場である。ここでは、人類の生活に不可欠な一般 的な自然保全の問題から、オゾン層破壊や地球温暖化まで広範な自然破壊が脅威として考えられている。これに近いものに、平和研究の立場から世界的な軍縮の動きを地球環境保全へと連続的に議論する立場がある。この場合、膨大な軍事費の何割かを環境保全につけ替えるべきだと主張することが多い。第二は、より具体的な次元で、希少資源の獲得や管理をめぐって生じる地域紛争を研究する立場である。対象は水資源であったり森林や漁業資源である場合が多く、対象域はアフリカ、中南米、中近東がとなることが多い。第三に、戦闘行為にともなう環境破壊の問題もこの文脈で論じられることがあり、91年の湾岸戦争がその代表例である。第四に、環境安全保障という言葉によってアメリカの国防関係者は、冷戦下の核兵器開発の過程で生じた核汚染や毒物汚染の浄化を指すことがある。 これに対しては批判もある。その典型は、このような言葉使いは安全保障概念の際限のない拡張であり、本来の安全保障概念をあいまいにする、というものである。そもそも脅威を与えようとする側の意図と手段が不明確であり、安全保障概念になじまないし、環境安全保障という場合は、安定していた環境条件が不安定化(in-security)する事態をこそ指しているのではないか、という指摘もある。 ところでアメリカのエネルギー省は、上記の第四の、冷戦時代の核汚染の浄化対策に本格的に動きだしている。95年に同省は『冷戦遺産の評価』を発表し、関連施設でみつかった3500の核汚染箇所の浄化の経費を約3000億ドルとはじき出した。 問題は旧ソ連圏である。冷戦後、ロシアに対しては、アメリカの主導で核物質の不拡散と核研究者の身分保証を目的とした援助が行われてきたが、これとは独立に、EUはウラル山脈から西側のロシアに対して環境援助を開始している。数年来の調査で、旧ソ連圏の大規模な核汚染と毒物汚染と人的被害、近海への核廃棄物の投棄の実態が改めて明らかになっており、さらに最近の経済の混乱で事態は悪化に向かっている。実は、シベリアの環境保全については、その位 置からみても外交姿勢からみても、すでに日本が援助に入っているのではないかと思っている海外の人間は少なくない。 東アジアには越境大気汚染問題に関しても、閉鎖海域の環境保全についても多国間協定はまだない。実は他地域の実績からみると、かりに国際環境協定が成立したとしても、ただちにその地域の環境が改善されるとは限らないのだが、このような国際合意が新たに形成されることは、地域の安定化に確実に寄与する。その意味で、日本が今後のアジア外交で環境協力をその主軸に置くことは、さまざまなタイプに国からなる複雑な東アジア地域に対して、環境保全と信頼性強化を同時に進めることと同じになるのである。 |
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