標準的な経済分析によれば、資本の自由な国際移動は経済発展の重要な要件である。発展途上国が自由に国際資本市場から資金調達できれば、国内の不規則な変動が
人々の消費に及ぼす影響を緩和できるし、国内の貯蓄が低い水準に低迷している場合にも、国内の有望な投資プロジェクトに資源を投入できる。また自由な資本移動は、多くの人々に幅広いリスク分散の機会を与える。
しかし東南アジアにおける近年の金融危機、経済危機はこの標準的な経済学の命題に深刻な疑問を投げかけているように見える。なぜならば、1990年代に生じた急激な
資本出入がこの地域の金融システムや経済を混乱させ、それまでの順調な経済発展に強いブレーキがかけられたという印象が人々のあいだに広まったからである。実務家ばかりではなく高名な経済学者の一部が、国際間の資本移動、とくに短期資本の移動を規制すべきであるという議論を展開するようになっている。
たとえば次のような見方は、やや誇張されているものの、東南アジアの金融危機に関する一つの有力な見方である。東南アジアからの多量
の資本流出が順調に発展を遂げてきた経済を不意打ちし金融危機を惹起した。銀行を中心とする金融仲介機能を収縮させ、国内経済活動に深刻な打撃を加えた。資本流入の途絶、あるいは逆流は企業部門の資金調達を困難にし、自国通
貨の急下落が外貨建て債務の負担を急増させた。さらにこうした資本の急激な流出は他の地域に伝播し、世界経済全体を動揺させた。この危機の発端は、東南アジア地域で進められた金融自由化に伴って、短期資本の急激な流入にある。こうした混乱の原因となる資本移動、とくに短期資本移動を規制すべきである。
冒頭に述べたような自由な資本移動の便益が、全く無前提でもたらされるわけではないことは言うまでもない。多くの研究者は、海外直接投資などに伴う技術知識の移転が、受入国側の生産性拡大に結びつくことを認めている。しかし完全に自由な資本移動が上に述べたような利益をもたらすためには、個々の国の経済構造や、国際資本市場において「歪み」が存在しないという前提が必要である。多くの発展途上国は、さまざまな面
で深刻な歪みを抱えているのである。その歪みは資本流入の社会的費用が私的費用を上回る状況であり、それゆえに「過剰な」資本流入が生じ、経済の混乱の原因となる。国内経済に歪みを抱えている国が海外から資本を受け入れた場合、その資本流入が、その歪みによる資源の非効率的な配分を助長する危険が高いことは明らかである。
「発展途上国の国内に何らかの歪みが存在するために、自由な資本流出入が困難を惹起する」という命題が正しいのであれば、もっとも適切な対応策は、その歪みを直接に是正することであり、資本移動を規制することではない。これは経済学の最も重要な命題の一つといてもよいであろう。しかし国内の歪みが、当該国の他の政策的な意図に基づいて人為的に作り出されており、それを除去することが困難か、または不適切であるという場合もあろう。あるいは 発展途上国が抱える歪みには、銀行部門の不健全な経営、企業経営に対する監視機構の不備、資金配分に対する政治家や官僚の恣意的介入など、一朝一夕で除去できない歪みもあるであろう。この場合には、「次善策」として資本移動の規制が意味を持つ場合があると言えよう。
しかし経済発展というダイナミックな過程では、資本の自由な移動が、良くも悪く
も、既存の制度枠組みや、既存の行政組織を破壊し、新しい制度導入のきっかけを作り出す点に注目すべきである。たとえば、インドネシアのスハルト政権は、長年にわたって一族を中心とするレント・シーキングの精妙な社会組織を維持してきた。この組織は国民経済全体の発展を促進するという観点から見れば、必ずしも長期にわたって存続すべきものではなかったはずである。しかし、その硬直的な組織を国内から破壊することはきわめて困難であった。その役割を担ったのは急激な資本移動の破壊力であった。皮肉なことであるが、インドネシアは、いち早く資本取引の自由化を進めていたのである。経済学者の中には、国際金融・資本市場がインドネシア政府に規律を与えたと論じている者さえいる。経済発展が創造的破壊の過程、つまり経済社会の環境変化に対応して旧い制度が破壊され、新しい制度が導入される過程であるとするならば、国際間の資本移動は、そうした発展の触媒となり得るかもしれない。資本移動のこの側面
については、さらに注意深い検討が必要である。