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ニュースレター
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2006年 1号
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Opinion | |||||||
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かつて、或る国際会議に出席した折、休憩時間に、出席者の間で「国際会議の名議長は一体どんな条件を備えているべきであろうか」ということに話が及んだことがある。「聞き上手」とか「説得力豊か」とかいろいろな意見が出たが、結局、「日本人の口を開かせて、インド人の口を塞がせることができる人が名議長」という笑い話でその場はお開きとなった。 今では、過去の語り草となっているが、ひところは、外国のジャーナリズムなどが、国際会議に出席する日本人を「スリーS」と評した。「スマイリング」、「サイレント」、そして「スリーピング」というわけである。 グローバル時代を迎えて、国際コミュニケイション力は、益々重要性を増している。良好な国際関係を保ち、相互信頼を高め、国際世論をリードする上で、コミュニケイションが不可欠な手段であるからである。 ところが、日本人は、国際コミュニケイションを必ずしも得意とするものではない。最近、国際会議での日本のブランド価値が低下し、日本への信頼感が高まらない背景には、日本人の国際コミュニケイション能力が低いことが災いしている。 日中関係では、戦後60年経過しているにもかかわらず、歴史認識や教科書問題で未だに政治上不正常な状態をひきずっている。日韓関係でも教科書問題や領土問題で摩擦が生じている。国連改革に伴う安全保障理事会の常任理事国問題についても、もっと早くから堂々と論陣を張り、十分に根回しをして理解を求めていけば、もっと違った展開もあり得たであろう。 それでは、何故、日本人は、コミュニケイションが劣っているのであろうか。先ず、日本語に「コミュニケイション」にふさわしい表現がない。コミュニケイションというと、一つには「情報及び意思の伝達」であり、二つには「相互理解への到達」であり、三つには「共感の形成」を意味するが、日本語には、そのような総合的な表現が見当たらない。 日本は、コミュニケイションを軽視する風潮があった。「沈黙は金」が美徳とされ、「目は口ほどにものをいい」と以心伝心を強調する。「きじも鳴かずば撃たれまい」と自衛上目立たないことが得だと教えられてきた。 我々は、学校でもコミュニケイションの能力を高めるような教育を受けたことがない。米国などでは、ディベィトのための論理構成と説得力を高めるために特定テーマをめぐって二手に分かれて議論する訓練を行っているし、プレゼンテイションの方法についても指導が行われているのと好対照である。 日本社会は、本来、同質的な社会である。多くの人が同じような考え方を持ち、共通した生活習慣を保っているので、黙っていても分かり合ってしまうのであろう。 従って、議論をつめることをせずに、「よきに計らえ」という方式が組織を円滑に運営するコツということになる。ところが、理詰めで議論すると、その成否がその案件に止まらず、関係者の人格評価や感情の行き違いにまで及んでしまう。従って、徹底的に議論をすることを避け、貸し借りで態度を決めたり、「足して2で割る」解決方法をとってしまう。 国際コミュニケイション力を高める上で大切なことが三つある。 第1は、語学力である。日本人の英語力は、残念ながらアジアでも最低水準である。こんなことでは、欧米の企業は、中国や韓国に向いてしまう。 第2は、論理性である。語学力は不可欠であるが、いくら語学力があっても、内容に論理がなければ、説得力は生まれない。それも、「日本の常識、世界の非常識」では通用しないので、世界の常識に根ざした理論が必要である。 第3は、ユーモアである。「欧米人のスピーチはユーモアで始まり、日本人のスピーチは弁解で始まるという。ユーモアがあれば、参加者の間で一体感が生まれ、上品なユーモアは、周りの人達の尊敬を生む。 グローバル時代には、異なる文化、違った思想背景の人々と接することになる。我々は、自ら明確な考えを持ち、論理立って自分の意見を伝える能力を高めなければならない。それができなければ、日本の主張を通すこともできないし、世界の信頼も得られない。 |
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