去る、1月18日、講師に東北芸術工科大学助教授竹村真一氏をお迎えして、標記懇談会が開催された。
以下、その講演を報告する。
東北芸術工科大学助教授株式会社プロジェクト・タオス代表竹村 真一
私は大学院では文化人類学を専攻し、通 産省の外郭団体、アジアクラブ(理事長、堺屋太一氏)の研究員になりました。
アジアクラブでは文化シーズの発掘や日本とアジア諸国との交流に関する仕事を致しました。
こうした経歴から、現在は大学で教えると同時に、世界の文化シーズを、応用人類学的プロジェクトとして、新しい都市開発ないし施設計画(博物館や医療センター等)のコンセプトプランニングに活かしていくという、一種の文化編集ビジネスを行っております。
さて、今日の話は医療人類学、環境人類学あたりが中心になります。そういう視点でアジアを見ますと、アジアの伝統文化の中には極めて多くの未来的シーズがあることに気付きます。医療分野、環境ビジネス、そして衣食住全てに関わる生活デザイン、更に進んで人間開発を含めた『21世紀の生命産業』のシーズがアジアには非常に豊富にある、ということです。
私は今アジアにある伝統文化ないし伝統技術から、21世紀の『生命産業』をどのように育成していくか、という問題意識を抱いています。
そこで、アジアの文化シーズから、特に『生命産業』を中心とした地球産業ビジョンを皆さんといっしょに考えてみたいのです。
それとともに、21世紀の環境政策が単に森林保護や二酸化炭素の規制という面 ばかりでよいのか、もっと違う側面があるのではないか、ということを私なりに提言させて頂きたい、と思います。
21世紀のアジアに『生命産業』が育ち、アジアの文化が現代的なかたちで継承された暁には、日本こそ国際的な『生命産業』のインキュベーター(incubator)やコーディネーターの役割を果 たさなければならないでしょう。
また、これは「アジア」が21世紀のグローバリズムの中でどのような意味と役割を担ってゆくか、という事に対する(政治・経済面 での位置づけに対する)一つの「代案」でもあり、「伝統」に対する我々の距離感を問い直す試みでもあります。
私は昨年9月、中国で開催された「気功と環境」というテーマの国際会議に出席しました。
この会議には日本からは医療哲学や気功の専門家、中国からは気功界、中国医学界ないしは道教を中心とする研究者等の重鎮が参加しました。
ここでの共通 認識と云えば、気功を含めアジアの医療文化ないし生命に対する考え方の中には、ヨーロッパ型の医療文化とは非常に異なった生命観がある、ということです。
本来、気功は環境、外なる自然とのトータルな関わりの中で自分自身の内なる自然を深める技術です。
更に、気功には人間以外の生命体(外なる自然の多様な形態)との同一化、或は異種間コミュニケーション(共鳴)を通 じて人間の内なる多元性を発掘してゆくような面白い側面があります。例えば、五禽技は五つの禽獣、具体的には猿、鹿、熊、虎、鳥等、又、亀蛇功は亀と蛇のポーズをとります。
樹林気功というのは、樹林の中で、木になり、根を生やしたような感覚を持ちながら、木と対話するのです。
気功で動物や樹林をまねるのは単なる演劇的表現ではなく、人間以外の視点で世界を見、又人間の中に潜在する動物性、樹木性に気付いて、進化をたどり直すことによって、多面 的に人間のポテンシャルを高めていこう、という発想があるからです。
周知のように、人間の脳は幾層もの多層構造になっていますが、そこには爬虫類の脳やネズミの脳も、層構造で折り畳まれているのです。つまり、脳という中枢神経系一つを見ても、生命の進化のプロセスが凝縮されているのです。同様に、人間の胎児も子宮の中で、35億年の生命進化のプロセスをわずか9か月に凝縮して演じています。
人間としてのアイデンティティーに一元的に凝り固まっていた自分の中に他者がいる、という人間の多元的可能性の再発見こそ、これまでの人間中心主義を地球史的レベルで超えてゆく、現代生命科学に於いて一番ホットなテーゼだ、と思います。
ところで、この五禽技の現代的変形が「ダイビング」や「イルカ」といった水に関わるフロンティアで現れてきています。120mの素潜りを記録したジャック・マイヨールという人で、彼はイルカとの異種間コミュニケーションを通 じて、自分自身の中に潜在するイルカ性を発揮し、イルカ的な水棲能力を触発することに成功したのです。
彼はかって水族館に勤めており、イルカと一緒に水槽の中で泳いだり、海の野生のイルカと触れ合っているうちに、水の中での効率的な酸素消費や海という環境の中で生きるエシックス等を、言葉によってでは勿論ないのですが、イルカから随分学んだ、と言います。
そして、人間もイルカも同じ生理的条件(肺呼吸)で出発しているのだから、イルカと同じような水棲能力を空気ボンベのようなテクノロジーによるのではなく、呼吸停止によって身につけることができるはずだ、自分の中に眠っている進化の祖型或は生命記憶として、折り畳まれている水棲能力を開発することによって、人間も水棲生物になり得る、とマイヨールは云うのです。
この一見、非現実的な思想を実証してしまったのが、最近はやりの水中出産なのです。無痛分娩であるとか、羊水から水中に出ることで、子供にとってよりナチュラルな分娩と云うことで注目されているのですが、面 白いことに、水中出産で生まれた子供達は水に対して恐怖心を持たないのです。
水中出産の際、新生児はしばらく水の中に漂っており、その後へその緒を切ってからも繰り返し水に返してやると、その子供は何も教えないのに息を止めて、水の中で呼吸停止状態でイルカと同じように泳ぐことができることが証明されています。人間の先天的能力のなかには、水棲生物としての生命記憶が確かに潜在し、人間以外の動物を鏡として、人間の外部と考えられていた可能性を開発してゆく人間観を拡張することができる、とする気功的な考え方が決して荒唐無けいでない事を証明したのです。
中国医学同様にインドにはアユルベーダと呼ばれる伝統医学があります。アユルというのは生命の意味で、ベーダは知恵という意味です。決して狭い意味での“病気を治す技術”としての医学ではなく、もっとトータルな“生命技術”といったニュアンスがあります。即ち、衣食住から生老病死まで全てを含む生活デザイン技術とか予防医学としてのコンセプトです。
患者がアユルベーダの医者のところに来ると、医者はまず脈をとります。但し、西欧近代医学のように単に一分間の脈拍数を量 的に計るのではなく、三つの体液のバランスを質的に調べるのです。この三つの体液の状態は脈の配置、リズム、強弱によって解読されます。その患者自身の持っている身体の先天的及び状況的な偏りを見ている、という点で、極めて情報工学的な診断方法と言えましょう。
そもそも、西欧の近代医学は病気が分かれば治療法も分かる、という発想です。しかし、インド医学ではどんな病気であるかより、その患者がどんな人であるかの方が重要です。つまり同じ病気でもその患者の体質によって全く対処法が異なると言う訳です。
これはある時期から薬も医者も、従って病気も病人も規格大量 方式にせざるを得なくなった西欧近代医学から考えると、謂わば一品種一生産の基本に忠実な方式です。
さらに、同じ患者の同じ病気に対する薬でも、朝、昼、晩各々飲む薬のバランスを変えます。
何故かと云えば、先程申しました3つの体液(ヴァータ、ピッタ、カッパ)は一日の時間の変化によって変わるからです。昼にはピッタという火や熱の要素が高くなり、夕方にはヴァータという風の要素が強くなる、というのです。そのバランスの変化に応じて、薬の時間デザインも必要になるのです。
体液同様、薬草にも同じことが云えます。植物も人間同様、環境の中であるリズムで呼吸しているものである限り、アユルベーダの薬草も時間の変化が問題になります。薬草医達は環境に対する文化的感性を持っていて、薬草を摘む場合、一日の時間や天体の位 置に配慮しますし、実際には採取できる状態でなければ、あえて採らないという環境倫理的側面 も持っています。
私が強調したいのは、この体液や薬草を含めインドの特殊な医学理論そのものではなく、一日の時間の変化ないし環境の変化まで考えて、身体(植物)がその環境変化と照合しながら変わっていく、というトータルな環境医学的思考法なのです。こうしたメタ医学的なものの見方、考え方にこそ『21世紀の生命産業』の基礎になるシーズがはらまれているのです。
アユルベーダには、生・老・病・死に対する非常に積極的かつ包括的な考え方があります。例えば、人間には意識されたレベルを超えた自然治癒力や多元的能力のポテンシャルがあり、それを積極的に伸ばしていけば、単なる病気の治療、病気との共生を超えて、より高次の生命様態のデザインや能力開発をも行い得る、と云うのです。
普段の日常生活に即したレベルでも、医者は患者に向かって常に、「体質に応じた食事」、「季節変化に即した生活スタイル」、「体質に対応したヨーガのポーズ」等、生活のトータルナビゲーション(navigation)を行っています。
更に、伝統医学には我々の常識から見ると異常と思われるものもあります。
それは病気を治す技術と同じ位 重要性を持つ治さない技術の存在、とでも云えばよいのでしょうか。ある伝統医学の名医は「病気を治すのは簡単です。本当に難しいのは、その病気をその患者から取り去ってしまってよいのか、という判断です。」と語っています。
日本にも胃潰瘍等の病気をあえて治さない、という医者が出て来ました。これはどういうことでしょうか?
今は薬で治すとか、体に余り傷を付けないでレーザーメスで手術をする等の治療法があります。しかし、胃潰瘍を生み出してしまった生活スタイルや人間関係をそのままにしておいて、胃潰瘍だけ切り取ってしまったら、その患者は又胃潰瘍になるか、或はもっとひどい病気になるかもしれません。本当に病んでいるのは胃ではなく、その人の心や関係かもしれないのです。
となると、長いタイムスパンでトータルに、その人の生命と人生(Life)をナビゲートし、デザインする、という視点に立つと治す技術の乱用はある意味での暴力ともなり得る訳です。
改めて考えてみますと、現代医学はより効率的に病気を治療して、社会の歯車を正しく機能し得るよう患者を社会に戻すことのみが、至上命題であったようなところがあります。
しかし一方の動きとして、21世紀に向かって、一部の医学は単に眼前の病気を治すことだけが目的ではなく、もっとトータルに患者の人生をプロデュースしていく産業になりつつあります。
慶応大学の石井威望教授はよく「これからは兼業病人化の時代だ」とおっしゃいます。これは高齢化に伴って、誰もがどこかしら悪いところを持ちながら、病気と共生しなければいけない時代になる、ということです。
多少の病気を持っているのは当り前で、患者は如何に病気と共生していくか、病気を持ちながらも健常者と同じように、仕事をしたり、学んだり、遊んだり、自己実現していくか、が考えられなければなりません。施設で云えば、遊び場、学校、工場、オフィスと病院とがトータルに融合した環境が求められていく、といえましょう。ここでも伝統医学に見られたような単なる治す技術以上のメタ医療的な視点が必要になってくるのです。
基本的にこういう多元的な思考の深度を持った医学の伝統を、単にどこどこには近代医学にはない特効薬があります、特異な治療法(治す技術)があります、といったレベルで片付けてしまうのは、人類全体にとって大きな損失です。
これからの医療や『生命産業』にとって、大きなヒントになるシーズをみすみす流産させてしまうようなものです。
ところが、西洋近代医学の視点から伝統医学を切り取ってしまうと、この薬はこの病気に効くと称して、例えばアフリカの民間医薬からキニーネのような特効薬を開発したりすることで満足してきたのです。つまり、トータルアプローチではなく、あくまで要素としてしか考えて来なかったのです。
これは例えてみれば、アジアのトータルな営みとしてあるアートの中から、(例えば「砂マンダラ」等は描くプロセスそのものが重要で、その結果 としての作品はでき上がって神を召喚した後、破壊してしまうのです)そこに描かれた作品としての絵だけを切り取って美術館に収集するようなものです。私はこういう形でアジアと関わりを持っている限り、アジアの本当のシーズとかポテンシャルを21世紀の産業文化に活かすことはできない、と思います。
では、ここで中国の気功やインドのアユルベーダを踏まえて環境問題を考えて見ましょう。
私は世界中で森林破壊や水資源の悪化が進んでいる今こそ、 “資源”の持つ多元的意味を改めて考えるべきだ、と思います。
例えば、森林は林業家にとっては物的資源です。しかし、木を伐るだけでは環境破壊になりますし、経済的にもそれで終わってしまいます。
森林にはリゾートを造ったり、ホテルを建設することで、観光資源にもなります。更に、水資源を確保したり、大気を浄化したりする環境財としての意味、環境資源としての側面 もあります。
しかし、更に森林にはこれらの側面 (物的資源、観光資源、環境資源)にも増して、経験資源としての価値も文化的に存在し、その意味も見直すべきなのではないか、と提案したいのです。つまり人間にとって森は工場や水源であるだけではなく、病院(癒しの場)でも、学校でも、教会でもあり得るので、森の民の文化は森のそういう価値を発展させてきたのです。
こうした経験資源としての森林ないし水等の環境価値を経営資源としても活用しつつ、「経済(産業)と文化」と「環境」と云う相矛盾しがちな論理を架橋しよう、と言う試みがエコ・ツーリズムという新しい環境産業分野です。そこでは、森の民の文化(知識)や樹林気功等が『生命産業』のソフトシーズとして、しかも単なる環境教育に終わらずトータルに人間と生命のあり方を高めてゆくような『生命産業センター』や『環境ビジネスセンター』の核となっていくことが期待されます。そこでは気功やアユルベーダ等が医学的にも応用され、病気治療のみならず、生活デザイン等色々な『生命産業』が育まれていくのです。
ここは、新しい環境ビジネスあり、人間開発ビジネスあり、同時に医療ビジネスがある複合ビジネスセンターです。
単に、開発か保護かという二元論ではなく、素晴らしい環境を21世紀の産業シーズや経営資源として、活かしていく方向がこの経験資源という視点を導入することによって見えてくるはずです。
私は環境危機には3種類あると思っています。
第一は地球模で云われる生態系の破壊、生態学的な環境危機です。第二は政治的な環境危機です。昨年の地球サミットでも浮き彫りになった南北対立はエコロジーという正義がともすれば、全体主義的暴力或は先進国中心主義にも転じ得る危機を呈していました。そして、第三に最も重要なのが文化的環境危機です。これは具体的エピソードでお話しましょう。
北京に行きますと、砂漠のようなところに木がちょろちょろ生えている程度で、緑と水が豊かな日本とは対照的です。ところが、日本では都市住民はほとんど緑を意識しないで生きていますし、農村に於いても物財としての緑があるだけで、日本人は必ずしも緑との生き生きした関わりを持っている訳ではありません。つまり、経験資源としての緑が希薄なのです。
逆に、中国では、赤茶けた、緑の少ない環境の中でも一本一本の木と向い合いながら気功的に対話している人々がいます。どちらが本当の意味で、エコロジカルな都市なのか、という視点が文化的環境危機の捉え方です。
物的環境としての森林を守ることも大切ですが、それで、経験資源としての森林-つまり人間自身のあり方-がないがしろにされるようでは、真の環境問題解決には至れません。21世紀の環境政策はこうした3つの次元のエコロジー(特に第三の文化的エコロジー)をトータルに調和させた形で進まなければならないのです。そこに、アジアの文化を再生させなけれなばらない必要性もあるのです。
今後、日本の環境危機には様々な次元があります。これからの環境政策や環境面 での国際協力を語る場合にも、生態学的環境を守るような環境協力も勿論必要でしょうが、同時にそこに人々が水や緑の環境と深い関わりの経験を持つ文化を発掘していくこと、現地の多様な文化の再生や文化デザインに力点をおく環境協力の回路も必要になるに違いありません。