これまで「高度情報化がもたらす社会変容と対応」ということで、委員が各自、様々な立場で情報化の進展に伴う社会変容について色々な角度から議論を展開してきた。社会変容についてはこれまで充分な議論を行ってきたのに対し、その対応策の議論はあまりなされてこなかったことと、また全体のまとめということもあるので、本章では「新開発主義」というコンセプトを出して対応策の構想を試みてみたい。
現在の高度情報化がもたらしている社会変容を考える際、大きな流れとして少なくとも二つのことを考えておく必要がある。一つは近代そのものの流れと言うべきかもしれないが、産業化を超えるような局面 への変容が生じているとする見方である。これを近代化の第三局面への移行、情報化と呼ぶこととする。またもう一つは産業化自身のなかで第三次産業革命が起こっているとみる見方である。ほぼ百年にわたる一つの産業革命の期間を前半、後半に分けるとすれば、前半を突破段階、後半を成熟段階と言うことが出来るであろうが、そのような見方からすると現在は第三次産業革命の突破段階にいることになる。この二つの大きな流れのなかで現在の社会変容を見る必要がある。以下、それぞれの見方をより詳しく説明してみる。
(1) 近代化の第三局面 への移行:情報化
情報化の局面では、主要なアクターとなるのは智業とでも呼ぶのが適切なNGO(非政府組織)やNPO(非営利団体)である。しかも現在の情報化の局面 では、旧来の智業とは異なる新しいタイプの智業、ハイテクで武装した智業が台頭してきている。あるいは広くネットワーク社会に生きる住人であるネティズン(Netizen)という言い方で呼ぶことが出来るかもしれない。ネティズン自体はもっと広い概念であるが、そのネティズンのなかから新しいタイプの智業が台頭して来ている。例えば、最近新興宗教が影響力を広げつつあるが、これなどは宗教を用いて知的な影響力の普及と発揮を目指すという点で、新たな智業の一例といえるかも知れない。
このように新しいタイプの智業が台頭して来る反面 、既存の智業の没落傾向も顕著である。例えば、学校、大学、学会などではその傾向が特に著しい。現在、学校で行われている教育が情報化に対応する事が出来ているかというと、決してそうとは言えない。大学も最近レジャーランド化しているなどということが言われ、教育機関としては今やほとんど期待されなくなっている。学会に至っては、さらに問題である。そもそも学会の存在意義というのは、業績の選別 、品質保証を行い、そしてそれを過去の業績との関連のなかで位置づけ、しかるべき発表の機会を学会誌という形でいわば排他的、独占的に提供し、学会誌に載った論文は図書館に残すというルールが確立しているところにあった。学会レフェリーのついた雑誌に論文が載ることにはそれなりの意味があり、自分の論文が何本掲載されたかということが業績になったのである。しかし、今や学会に出しても簡単には出版されない上に、それほど広く行き渡りはしない。これに対して、インターネットで自分の論文を発表する方法を採れば、即座に、しかもほとんど無料で配ることが可能となる。現在学界の権威がかなり落ちているというのは、おそらく紛れもない事実であろう。
放送なども同様である。いずれオープンデータネットワークのなかに放送は吸収されていくことになるのではないだろうか。コンピュータの広範な普及によって、データ通 信の形で出される情報はどんどん既存の放送局以外の媒体から発信されることになる。この結果 、無数の放送局が出来るという状況が実際に起こってくると考えられる。
以上のように高度情報化の進展と共に、新たな智業が台頭し、既存の智業の存在を脅かすに至っている。しかし新しい智業は、既存の智業、より広くは既存の社会秩序と衝突するので、両者を調整する何らかの新しいルールを考える必要がある。そこで生じるであろう犯罪とか詐欺的な行為に対しては、これを取り締まる必要も当然出てくるわけで、新たに権利、義務の体系に加えて、道徳や法の体系を考え直さなくてはならない。現行の民法、商法、あるいは宗教法人法などでは不十分だと考えられる。
例えば、企業の場合は財産権というコンセプトに立脚し、国家の場合は国家主権というコンセプトに立脚しているとすれば、智業は情報権という新しいコンセプトに立脚しているはずである。この情報権とこれまでの財産権、国家主権との間の調整をどうつけるかという問題が、今後大きな問題となってくる。その際に思い起こさなくてはならないのは、アメリカで19世紀に制定されたコムストック法である。これは現在の米国通 信法のエクソン修正案と同じく、郵便(エクソン修正案なら通信)でわいせつな文書、品の悪い文書などを送ることを禁止するというものであった。アメリカでは、本や雑誌などの入手は通 信販売を用いるのが普通であったため、名作のほとんどがコムストック法に引っかかることとなった。その結果 、アメリカの人たちは何十年かに渡って名作と言われる文学を簡単には読めない状況になり、これが19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、アメリカにおける文化の発展をかなり阻害したのではないかということが言われている。新情報通 信法に追加されたエクソン条項を批判して、コムストック法の愚かしさを繰り返すようなことをしないようにしなければなるまい。
しかし何も規制しなくていい、すべて自由でいい、ということにもならないであろう。やはり既存の産業などと摩擦を起こしうる智業に対しては、何らかの規制、すなわち智業法というものを考えなくてはならない。例えば、新しい社会契約、新しい刀狩ということで、一方で政府に解けないような暗号を使うことを禁止するとともに、他方ではそのかわり政府が国民のプライバシーに関わるような情報を集めることを禁止する、なかんずく国民総背番号制のようなものは絶対させないということなどが考えられる。
また財産権、国家主権との関わりでは、税制など、国家が自らの運営に必要な基盤を獲得するための仕組みも相当大きく変えていかざるを得ない。今後電子取り引きが普及すれば、個人の所得や資産を国家が知り得る機会は相当少なくなるであろう。所得が分からなくなるだけではなく、消費税なども取ることが出来なくなるなど、20世紀に発達をとげた税制では対応できなくなる。そこで考えられる案としては、イギリスでサッチャー首相退陣のきっかけともなったほど不評であった人頭税か、ノーベル経済学者のジェームズ・トービンが提案している、ネットワークに流れるすべての情報に対してかけるビット税などしかないのではないか。
また、現在のネットワークが持つ可能性を将来に延長して考えれば、代議制民主主義というシステムについても大きく変貌する可能性がある。例えば、投票のやり方一つとってみても次のようなことが可能である。まず有権者は自分の支持する政治家をネットワークを通 じてノミネートする。そしてノミネートした人に対して、有権者の口座から毎月一定額、例えば、国政のレベルであれば千円づつ、都政のレベルであれば五百円づつなどの金額が自動的に振り込まれる。但し月一回、あるいは2カ月に一回、別 の人にノミネートし直すことが出来るような仕組みを作っておく。そうすればいちいち投票しなくても、政治家のランキングはリアルタイムで分かるということになり、期限を切って上位 の何人かで政治を行うという方式により選挙が出来ることになる。こうして税金に頼ることなく、直接に政治を運営していく政治システムを構築することが出来るのである。
以上、情報化、ネティズン革命という社会変容がもたらす変化の方向と、これから問題となってくると考えられる事柄をいくつか見てきた。情報化の進展に伴って新しい社会の担い手であるネティズンが台頭してくるにつれ、ネティズンの行動に適合する形で社会制度を変革する工夫をしなければならない。さもないと、ネティズンが既存の秩序を脅かすような行動に走る可能性が想像されなくもない。いわば、ネティズン革命を急進的なものではなく、出来るだけ漸進的なものにしなければならないのである。最近アメリカでは、建国以来のアメリカの憲法、あるいはその後のいくつかの憲法修正条項を基にして作ってきた、米国流民主主義の秩序が情報革命によって大きく変わらざるを得ないという認識が次第に芽生えつつある。日本も何らかの対応策を講じなければならないときに来ている。その対応策については、第三節において検討することとして、次に社会変容の二つの大きな流れのもう一つ、すなわち第三次産業革命の突破段階という点について、見てみることとする。
(2) 第三次産業革命の突破段階
現在の高度情報化の社会変容は、先の情報化とは違ったもう一つの見方である。第三次産業革命の突破段階という視点からも検証してみることが必要である。この視点は今日の日本にとって非常に重要であり、かつ必要とされているものである。現在日本が直面 している閉塞状況から脱出する方策を考える上で、この状況に陥らせている原因を探ることが緊急に必要であり、その原因とは、日本のシステムが産業革命の成熟段階には非常に力を発揮する反面 、突破段階にはあまり役に立たないということだと思われるからだ。
これまでの日本の過去を振り返ってみると、日本の産業化をかなりの成功に導いた通 産省等による開発主義モデル、あるいはそのもとでの産業政策と分配政策の組み合わせは、成熟段階でのキャッチアップには有効な政策体系であったのだが、突破段階における突破に関しては適切でない、有効でない方式であったといえるのではないか。
日本が産業化にかなりの成功を収めたのは、まず明治の中期以降から明治末にかけて、次は戦後という、二つの時期であった。明治中期から明治末にかけての時期は、ちょうど産業化の19世紀システムが終わるころであり、日本はすでに確立されたイギリス型の産業構造や技術をモデルにして追いかけて、殖産興業政策で軽工業を中心とする産業構造を構築するという路線を走ればよかった。また戦後の成功も、20世紀のシステムが成熟段階に入っていくときであり、自分の前にはアメリカというモデルがあってこれを追いかければよかった。いずれの場合も技術進歩のたどるコースは非常にはっきり見えており、政府も産業がどの程度の規模で、どのくらいの資本を必要としているか、需要はどのくらいかというような計算を行うことができ、支援を行うことが出来たのである。またビジョンを共有することで、政府のリーダーシップに対して民間も進んで従うこともあり得たのである。
これに対して、日本が産業化の局面 においてうまくいかなかったのは、大正から昭和中期にかけての時期である。この時期の特徴は、産業社会がまさに19世紀システムから20世紀システムへと突破を行おうとしていた時期で、モデルが無いという状態のなかで、日本は模索をしてもなかなか突破できなかったのである。突破段階では、古いパラダイムが崩れていくにもかかわらず、新しいパラダイムはまだはっきりしておらず、そもそもどのような技術が可能であるか、あるいは可能であったとして社会がそれを受容することが出来るのか、というようなことはほとんど分からない。このように非常に不確実性が高いという状況が突破段階の特徴なのである。
付言すれば、現在のNIES、ASEAN諸国の1970年代から90年代にかけての産業化の成功というのは、20世紀システムの成熟段階で作られたモデルを自分たちがコピーするという点では、アジアは非常に優位 に立っているわけであるから、現在アジアが経済成長に成功し、産業化への離陸への道を歩んでいることは必ずしも不思議ではない。しかし、今後20年から30年後にこれらの諸国が突破段階に入った際、突破型のシステムを構築して、これまで通 り経済成長を続けることが出来るかどうかは、少々疑問が残る。クルーグマンがアジアの経済成長は幻想であるというようなことを言ったが、その根拠はともかく予想としてはそれほど間違った結果 にならないかもしれない。
翻ってアメリカを見てみると、アメリカの社会システムや文化、ライフスタイルは、突破型に強いシステムであるということが言える。社会そのものが、新奇性を好むというか、新しいものに投入する資金を惜しまないという伝統がある。もちろん全てが成功するわけでなく、たくさん失敗もでるが、その中からいくつかの突破が行われて、これにより成長していく。「あんなに失敗した。これではとんでもない。」と考えるのではなく、「あそこに成功者がでた。これはすごい。」と考える思考が定着しているのだ。こうして1980年代後半から90年代初頭にかけて、アメリカは着々と突破を実現している。それにはアメリカ社会のこうした特性が大きな役割を果 たしている。これに加えて、アメリカはある種の産業政策を採用し、政府が先導的な試みを行ったり、ある特定の技術開発に対する支援を行ったりしているのである。
それでは日本はどうするのか。一般
によくなされる議論は、アメリカ的なシステムなり、政策なりをそのまま採用すればいいではないかというものである。現に今日の日本では、規制を緩和して自由にし、どんどん競争させればうまくいくという考えが前提になった議論がなされている。しかし日本の文化を考慮すれば、そのような議論が問題を一面
的にしか捉えておらず、総合的な議論でないことは明らかであろう。突破に弱い日本が、それでも突破段階を経ていかざるをえないとすれば、何をしなければならないか。より積極的な哲学と政策の体系を今こそ編み出さなくてはならないのではないか。その点を次の第三節において議論することとする。
前段で述べたとおり、長引く不況など今日の日本が陥っている閉塞状況からどのようにして脱出するかを考える際、単純に規制緩和を行えばよい、あるいは自由化すればよいという議論は、日本の文化の制約を考慮しない、あるいは日本の文化が容易に変わりうるとする文化変容期待論とも言うべきもので意味をなさない。それでは一体どのような対応策が考えられるのか。
まず一つの手として、諦めてしまうというのも一つの方策である。日本の文化は容易に変わらないのであるから、アメリカなどで全く新しい技術革新が起こって新しいパラダイムが確立し、突破段階がある程度終わるのを待つ。その間は堪え忍んで、再びモデルが出来上がったときに、もう一度戦後の日本のように追いつき型発展の経路に乗るという戦略がそれである。
しかしそれではあまりに消極的すぎるので、今少し積極的な対応策を模索するとどういうことになるであろうか。いくつか考えられるものを挙げてみる。
まず最近クリエーティブな日本人が、また日本の企業が海外へと進出し、海外で活動することが多くなってきている。そうしたことを止めるのではなく、むしろ積極的に奨励する。そして成功すれば呼び戻し、日本が突破するのに役立てる。つまり日本の文化では突破が生まれないのであれば、アメリカのシステムを借り受けて突破を目指すという方法である。
あるいは、外国の資本や技術や財に国を開いてしまうという方法もある。例えばイギリスなどは、ある程度早い段階で情報化技術についてはそのような決心をしたように見受けられる。また、ブラッセルで行われたG7サミットでのヨーロッパの対応策として出されたバンゲマン・レポートなどは、ある種の降伏路線を打ち出したものである。すなわち大西洋を越えてアメリカと同盟を結び、アメリカの情報技術供与に期待するというものである。一言で言えば、対外提携路線ということになる。そして、むしろこの提携路線でいくとすれば、それを前提にした政府の新たな役割ということで、規制緩和や競争、対外開放の強制をしたりすることになる。また先導的試行をしたり、技術開発を支援するなどの一連の政策を組み合わせることになる。これはある意味で、日本のこれまでの経験に照らして慣れ親しんだものであると言えるかもしれない。
もう一つは、コミュニティーネットワークの構築が考えられる。このコミュニティーネットワークというコンセプトこそ、アメリカと競争して日本が突破をはかっていく上での急所であり、コミュニティーネットワークの構築で日本が世界に先鞭を付けることが出来れば、発言力もかなりのものとなるだろうし、他の国々に参加を呼びかけることもでき、日本の起死回生の策となりうるのである。
ここ数年のアメリカには、大きな強みと大きな弱みがある。コンピュータ産業に関しては、全てではないにしてもアメリカは大きな強みを持っている。日本の第5世代、ヨーロッパなどのユーレカなどの政府は失敗したと言わざるを得ない。
他方アメリカが失敗したのは、規制産業であった電話やケーブルテレビなどに対する政策であって、これについては見るべき成果 を上げることが今日まで一向になかった。成果を上げるどころか、政治的な活動を通 じてアメリカの情報化の足を引っ張っている。例えば、今度の新通信法などについても動いた政治資金は莫大なもので、結局、新通 信法は地域電話会社に事実上の独占を認め、ケーブルテレビを吸収合併することを認めるものであった。その地域電話会社はどうしようとしているかというと、一説によるとワン・ワイヤー・ソリューション、すなわち家庭にはワイヤーを1本だけ引くだけにとどめ、そのワイヤーには充分な双方向性などは付けない。つまり双方向広帯域通 信には大きな需要などあるはずがないと決めつけ、しばらくは光ファイバーを引くことはせず、同軸ケーブルに毛の生えた程度のものでしのいでいこうと考えているという説がある。
もちろん地域電話会社もインターネットを無視しているわけではなく、いくつかの地域電話会社では、ATM(非同期転送モード)という方式によってインターネットの接続に積極的に参加していこうとした。しかし、それはこれまでのところ成功しているとは言いがたい。このATMという通 信方式を用いれば、かなり大容量の通信を行うことが可能となり、インターネットの画像などのデータを送る上で非常に有用となってくると見られている。しかし、このATMという通 信方式は、現在の技術水準をもってしてもまだフロンティアの部分であり、実際に実用化するのは難しい。また、そもそもATMを用いなければならない程、大容量 の通信を行う需要が実際に存在するかどうかは疑わしい。つまり地域電話会社は、今後のインターネットの発展によって需要が増すと考えられる双方向性は軽視し、また逆にそれほどの需要は見込めないかもしれない、さらにいえばその実現性さえ不確定なATM方式を性急に採用しようとするといったちぐはぐな行動をとってきたのである。
このように電話会社は、自分たちの独占を守るだけではなく、インターネットの普及に対しても足を引っ張ってきたと言える。
また一方で地域電話会社は、先程も挙げたエクソン修正条項の挿入にまで手を貸したと言われている。エクソン条項が持つ短期的な結果 は、インターネットの普及を大きく阻害すると共に、BBSやマイクロソフトに大きな痛手を与え、パソコン通 信およびインターネットの普及を非常に遅らせることになる。その間、地域電話会社はかなり余裕を持って未来に対して備えを固める状況を手に入れたことになる。このように、アメリカは1995年にインターネットの市民利用という点では、一種の反動期に入っているとも見られる。
以上のことから分かるように、アメリカでかなり無視されてきたのが、新しい意味でのコミュニティーネットワークというコンセプトである。勿論その種のコンセプトは、アイオワにもないわけではないし、ノースカロライナやメリーランドあるいはカリフォルニアにもないわけではないが、もっと徹底した新しいアーキテクチャーに基づくコミュニティーネットワークを作り、それを運営していくための新しい社会システムを日本が考える余地は十分にある。例えば、次のようなものが考えられよう。コミュニティーに光ファイバーを引く際、ファイバー・トゥー・ザ・ホームという形で、電話局から直接一軒一軒の家庭へと引っ張るなどという、中央集権的、階層的なネットワークとはせずに、町内、団地などにループを張って、まずその中で完結したネットワークを完成させる。次いでこれを地域のインフォメーション・ユーティリティーとして、到る所にインフォメーション・コンセントを設置し、そこからプラグ・アンド・プレイでどんな端末でもつけられるという分散型ネットワークの形にする。言うなれば、コミュニケーションとコラポレーションを重視し、コミュニティーで必要な情報を送ることに重点を置いた、全員参加型の情報通 信システムを構築しようという試みである。またそうすることによって、一戸当たりのコストは非常に安くすみ、しかも広帯域を実現でき、完全双方向型の通 信を可能にするようなモデルを考えることが出来るのである。
上に挙げたようなシステムであれば、NTTだけが独占的に提供するという必要性はなく、電力会社、地元の建設会社、電気工事屋など、いかなるアクターであってもかまわない。要するにLANを提供しそれをつなげばいいわけで、最低限共通 のプロトコルさえあれば、全員参加型の利用が可能になるシステムが出来上がるわけである。
それでは、こうしたコミュニティーネットワークをどこが主体となって構築し、運営していくことになるかというと、その点はあまりはっきりしない。おそらく自治体が前面 にでるというのは難しいことだろうし、どこかの企業、あるいは合弁などというわけにもいかないであろう。それよりはもう少し公的な性格を持ち、色々な関係者が入った、地域情報化委員会とでも呼ぶのが適切な組織が運営主体となるのではないか。この地域情報化委員会は、ある種の契約能力を持ち、法人格を持ち、それなりの予算を持った主体である。
以上この第三節においては、第二節で検討した現在の日本の社会変容によって生じる様々な問題点に対し、日本がとるべき対応策について議論してきた。次の第四節では、日本がここでいう新開発主義の理念などを念頭に置きながら提唱することの出来る、新しい世界秩序の構想とはどのようなものなのか検討することとする。
この第四節では、新しい世界秩序の構想に関して、政治秩序軸、経済秩序軸、情報秩序軸、社会・文化秩序軸の4つについて、在来と今後の展望を検討してみたい。村上泰亮の言葉を借りていえば、多相的な自由主義と新開発主義を組み合わせたような秩序を考えてみることは出来ないかということである。
まず政治秩序軸と経済秩序軸に関してであるが、この2つこそ二十世紀のパクス・アメリカーナの下で考えられていた世界秩序軸であった。政治秩序軸の目標としては平和、安全であり、経済秩序軸の目標としては繁栄、豊かさであった。それではどのような手段でその目標を実現するかというと、これまでのアメリカの論理でいけば平和は民主主義で、繁栄は自由主義でということであった。もう少しグローバルに広げて言えば、平和はさらにパクス・アメリカーナのシステムであり、経済は自由貿易が建て前であったのだが、その裏には官民対立型の規制主義の考え方があった。
しかし、政治秩序、経済秩序の目標そのもの、すなわち平和、繁栄などは決して悪い目標ではないが、その手段が果 たしてパクス・アメリカーナの下での民主主義、官民対立を前提とした自由競争主義というもので果 たしてよいかというと、非常に疑問が残る。
政治秩序については、村上泰亮の卓抜な考えによれば、手段についてもっとポリモルフィックな、多相的な可能性を認めていいのではないかというものがある。つまり必ずしも民主主義的でない政治システム、または単純なアメリカのヘゲモニーの下で構築されるグローバルな安全保障システムというよりも、むしろいくつかの地域的な安全保障システムを考えて、そのいずれにもアメリカが入っているようなシステムなどを考えてみてもよいのではないか。少なくとも、在来の民主主義とパクス・アメリカーナのシステムでは今後の国際政治はうまく機能しないことは間違いない。
同様に経済秩序に関しても、自由競争と官民対立を前提とした経済システムが、本当に産業化のいっそうの推進を可能にするのか、あるいは発展途上国における産業化への離陸を可能にするのかという点は非常に疑問である。これも村上泰亮が述べたように、官民対立よりも官民協調を前提とした開発主義を積極的に容認することがあってもよいのではないだろうか。EUなどの国々においては、基本的に国家と企業あるいは資本主義というのは対峙するものであって、しかもその対峙する資本主義というのは国の外側から来るものであると考えられている。従って国家は、そういう資本主義の搾取に対して国民を守らなければならないという観点から経済政策を考える。そういう意味で、保護主義的、防衛的であり、そこには官民協調によって国内の経済を発展させ、それによって世界経済の発展につなげようという思考は全く存在しない。ところがアジアの国々の場合は、官民協調を通 じて、経済の発展を遂げ、地域全体をよくし、それを世界経済も歓迎するという哲学が定着している。こうしたことを考えると、単なる自由主義、独占、あるいは保護主義などに基づいた政府の役割といった議論では、もはや意味がないことは明らかである。
三番目の秩序軸である情報あるいは知識秩序軸に関しては、これまであまり議論されてこなかったが、その目標として考えられるのはおそらく''愉しさ''というものであろう。そしてその手段となるのは、ネットワークであろう。これまでの情報秩序は、例えば教育を例にとってみれば明らかであるが、規律や詰め込みを重視した厳しいものであった。教育に愉しさというものは、ほとんど全く存在しなかったと言ってよい。今後はそうしたその教育そのものの捉え方自体が変化していくと考えられる。現に近年のコンピュータ産業、ネットワーキング、そしてゲーム産業などでの人々の行動様式を見てみると、基本的に愉しさに動機づけられているということがはっきりと分かる。今後この情報秩序軸に関しては、どういう手段でその目標を達成するのかという点について議論を深めていく価値がある。
最後の社会・文化秩序軸に関してであるが、これまた現在の社会変容のなかでは極めて重要な要素である。今日の世界はあまりに多様化し、文化的、あるいは文明的に様々な社会が存在し、共存している。これまでは国家同士はいかに異質であってもいずれは近代化し、産業化するのであるから、その違いを正確に知る必要は何ら存在しないということになっていた。しかし、特に冷戦以後は米ソだけでなく、冷戦中には草刈り場であったような第三世界の国々なども含めて、国家同士の違いが明確になってきて、社会・文化の点で大きな差異が存在することが明白になってきたのである。そうすると、差異を抱える国家同士がどのように付き合うかということが問題となってくるわけである。
それでは社会・文化、あるいは文明・文化の次元での秩序の目標はどのようなものかと言えば、文化の相互理解と文明の相互受容というものになろう。文化というのは無意識のうちに身につけてきた価値観などに代表されるものであるから、お互い取り入れることはほとんど出来ない。せいぜい理解することで精一杯ということになる。しかし文明のレベルでは、例えばドイツ人でも結局ファックスを使うようになるというように、選択的ではあれ、相互受容は可能である。そしてこの目標を実現するための手段とは、自由なコミュニケーションと自発的なコラボレーションということになるのではないか。自由なコミュニケーションができれば、文化の相互理解と文明の相互受容が進むというのは楽観的かもしれないが、そのような提案を行ってみる価値はあるのではないか。
そこで、この第四節で行った議論を図式化してまとめておく。
政治秩序軸:目標は平和・安全
在来:民主主義、パクス・アメリカーナ
今後:多様な政治システムの容認、地域的安保システム+アメリカ
経済秩序軸:目標は繁栄・豊かさ
在来:自由主義、官民対立
今後:開発主義の容認、官民協調(新開発主義?)
情報秩序軸:目標は愉しさ
在来:なし。教育なども規律や詰め込みを重視
今後:ネットワーキング
社会・文化秩序軸:目標は文化の相互理解と文明の相互受容
在来:なし
今後:自由なコミュニケーションと自発的なコラボレーション
前節において今後の新世界秩序について、多相的自由主義と新開発主義の秩序ということで、政治秩序軸、経済秩序軸、情報秩序軸、社会・文化秩序軸の4つの秩序軸に関して考察を行った。さしあたってはアジア・太平洋地域をこの4つの秩序軸に関する世界のモデル地域とし、先程議論したような提案を、日本がリーダーシップをとって行っていくことは非常に意味があることであろう。
アジア・太平洋地域を世界のモデル地域にしようではないか。