日本語に「黄色イ声」という表現がある。甲高い声の音を「黄」という色で感じているわけである。元々の由来は、細かく指示のついた仏教の経典に、読経の際の音声の調子まで指示したものがあり、高い声色というと色で表せば黄色かなと、何となく思えてくるのが不思議なところである。この表現は、〔視覚〕を〔聴覚〕に置き換えて使用している例であるが、このように五感の一つを別 の五感の表現として転用することは、共感覚(synaesthesia)と呼ばれており、どの言語も存在すると考えられる。人間の生物体としてのレベルでの言語使用であるので、各言語間に似通 った共感覚の例が見られることも当然ありえよう。勿論、''yellow voice''という英語表現は無いわけであるから、個々の言語において、いまだ開発されていない共感覚の当然分野も多くある。いずれにせよ、日本語と英語に見られる共感覚的な表現を比較してみることで、ものの捉え方、感じ方の共通 点・相違点が浮かび上がるはずである。
英語には〔味覚〕を〔聴覚〕に転用した''sweet voice''という表現がある。「甘い声」という日本語が不自然であるのと対照的である。〔視覚〕→〔聴覚〕の例では、''clear voice''があるが、この''clear''という語は、<よく見える>、<混ざりものがない>という視覚を表すのに用いられていたものが、<よく聞こえる>という聴覚に、さらには''clear meaning''などと言う時の、<よく分かる>というr抽象感覚にまで広く転用されて用いられるようになった語である。日本語では、「はっきりとした」という語は全ての場合に共通 しているものの、<混ざりものがない>という意味合いでは〔聴覚〕と〔視覚〕の場合は「澄んだ」という大体同じ表現が用いられるが、抽象概念には適用されない。「澄んだ意味」は日本語には無い表現である。
〔味覚〕を抽象感覚に転用した例に、''delicious joke''<面白い冗談>というのもある。日本語にも「ウマイ話」というのがあるが、意味は異なる。''sweet''はまた、''sweet smell''のように使われる。〔味覚〕を〔嗅覚〕に転用している例だが、日本語でも今や「甘イ香」は「芳香」と並んで自然な表現となっている。〔味覚〕を〔視覚〕から生ずる抽象感覚の形容に用いたものに、「クサイ演技」というのがあるが、''stinking performance''というのは常套句ではない。日本語には、「クサイ話シニハ蓋」という言い回しもあり、私達は、嗅覚には敏感な言語集団なのかもしれない。それに対し〔嗅覚〕は、あまり積極的な言語化の対象にはなっていない。英語で''loud dress''<目立ち過ぎるドレス>というが、「ヤカマシイ服」はかなり解釈に無理を強いられよう。これは、〔聴覚〕を〔視覚〕に転用した例だが、日本語にはなかなか見つからないパターンである。
その他、純粋に共感覚と見なすのは難しいが、五感の一部を抽象感覚に転用して用いている例をいくつか挙げておこう。''hot news''<ホットなニュース>というのは肌の〔触角〕もしくは熱感覚を表す''hot''を転用したものであるが、おもしろいことに、日本語でもそのまま借用して用いられている。「デキタテ・トレタテノホヤホヤ」という意味合いを<ホットな>という語から直観的に感じ取っているのであろうか。また、抽象度は高い日本語では「熱イ眼差シ」「冷タイ視線」という例もある。〔触角〕の転用に、''dry humour''<冷静な皮肉がきいたユーモア>という英語の表現例があるが、日本語にはピッタリ対応する表現はない。「乾イタ冗談」は論外として、「冷メタ冗談」などと言うこともあるが、あまり自然な感じはしない。
日本語と英語の共感覚的な表現を比較検討してきたわけだが、そもそも共感覚というのは隠喩(metaphor)を生み出す豊かな源であるので、現存する共感覚的言語表現は母国語でなくとも、何らかの意味を実感させてくれるし、人間の心の動きがよく似ているという驚きも与えてくれる。''bright'idea''<名案>は「明案」と日本語の方をまちがえそうになるし、''heavy wound''<重傷>や、''deep sigh''<深い溜め息>、''vivid memory''<新鮮な記憶>などはピタリと一致している。そこで、こうした近い心の動きを学ぶのが、二カ国語話者になるための王道である……というのは「真ッ赤ナ嘘」……ではなく、''white lie''<他愛のない嘘>ということである。