1998年6号

経済危機 - マネーゲームと環境問題 -

 1997年後半から起こった東アジア通貨の急落は、金融危機へと発展し、さらにいくつかの国では経済危機へ、インドネシアなどでは政治危機にまで展開した。

 つい先頃まで「東アジアの奇跡」が言われ、中国および東南アジアを含む広い意味の東アジアの急速な経済発展が世界の注目を集め、そして東アジアが今後も急速な経済成長を続けて、21世紀の世界に大きな比重を占めることが、いわば既定の事実のように思われていた。

 しかし最近の東アジアの経済危機は、このようないささか慎重さにこと欠いた楽観的な見通 しにショックを与え、今度は、にわかに東アジア経済の「不健全性」が言われるようになった。

 そこで、最近の経済危機は、単に国際通 貨市場のもたらした一過性のものであり、やがて東アジア諸国の経済は再び高度成長の軌道に乗ると考えるのか、それともそれは東アジア経済の根本的な脆弱性を表したものであって、いずれにしても成長路線は挫折するであろうと考えるのか、二つの見方に別 れている。

 この二つの考え方のどちらが正しいのかについて、今私は立ち入って述べる余裕はない。しかしはっきりしていることは、東アジアの経済発展を考えるに当たっても、問題をそれぞれの国だけ、あるいは東アジア地域だけで考えるのではなく、世界経済全体の中で見なければならないということである。

 東アジアの通貨危機、経済危機は、世界全体の経済の流れ、世界的な金融自由化、経済のグローバリゼーションの流れの中で理解しなければならないので、それをその国の経済、あるいは政治だけの問題にしてしまってはならないのである。そういう観点からすれば、現在世界全体の経済はますます流動化し、また不安定性を増しているように思われる。

 最近アメリカ経済は好調を続けており、これはいつまでも不況の続く日本や、混乱に陥っている東アジア諸国、あるいは依然として高い失業率に悩まされているヨーロッパ大陸諸国とは、際立った対照をなしているが、このことはアメリカ経済が必ずしも模範的であるということを意味するとは限らない。

 一方の好調は他方の不調と表裏の関係にある面 があるからである。1980年代日本や東アジア諸国が好調のとき、アメリカは金融不安や双子の赤字、高い失業率に悩まされていたのである。

 最近、世界経済はますますグローバルなマネーゲームにまき込まれつつあるが、しかしマネーゲームは基本的にゼロサムゲームであり、一時的なバブルで皆が儲かったような感覚が生ずることがあっても、結局一方の利益はもう一方の損失とならざるを得ないのである。

 日本のバブルのその後の不況も、また最近の東アジアの金融危機も、結局はグローバルなマネーゲームの産物なのである。そしてどうやら最近、日本やアジアの国々はマネーゲームで一方的に敗れつつあるようである。
 ここでマネーゲームそのものを道徳的に批判したり、その勝者を非難したりするつもりはない。

 しかし問題は、世界経済が完全にマネーゲームの論理で支配されるようになると、その長期的な発展の方向性が失われることである。社会主義計画経済は破綻したとしても、一国の長期的な発展に一定の方向性と計画性を持たせることは、日本が少なくとも1980年代までは行なってきたことであり、一国の健全な経済発展のためには必要なことである。

 マネーゲームに翻弄される市場経済の論理だけで、経済の長期的、整合的な発展は期待できない。

 このことはいろいろな点で重大な意味を持つが、環境問題、とくに地球環境問題には深刻な影響を持つと思われる。地球環境問題の解決には、世界全体としての長期的な経済の構造改革が必要だからであり、そのためには一貫した計画性が不可欠だからである。

 京都会議で温暖化防止のためのCO2排出抑制について多くのことが語られたが、いったん「経済危機」が叫ばれると、そんな問題は全くどこかに飛んでしまったように、ひたすら「需要拡大」が要求され、その内容などはかまわないということになってしまう。もちろん原理的には景気対策と環境政策とは矛盾するものではなく、景気対策として環境保全のための投資を行うことは充分に可能である。

 しかし一律な減税や、金融緩和、あるいは無方向な財政支出では、そのような方向性は生まれない。政策がマネーゲームの後始末に追われている限り、実は有効な環境政策は不可能である。

 環境問題についても、現在の経済の論理のあり方が最も根本的な問題であることに、環境保全に関心のある人々も注意を払うべきであると思う。

 

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