エネルギー問題や地球環境問題への関心は、今や若い世代にかなり浸透したように思われる。それは、私の研究室にくる学生たちだけでなく、もっと若い世代、例えば中高生やことによると小学生にも広がっているのかもしれない。図書館の児童書コーナーには、レベルが高いと思われる内容が大変わかりやすい図や文で説明されている書物を数多く見ることができ、しばしば驚くことがある。環境庁にもマンガによる解説シリーズがあるが、こうして問題をわかりやすく伝えようとする人たちの努力には、頭の下がる思いがする。
ところで、これらの問題を語ろうと思えば、話はどうしても数十年、時には百年単位 の未来に及ばざるを得ない。未来を語ることは夢があって楽しいのだが、地球環境問題やエネルギー問題の将来予測を、夢だけで語るわけにはいかない。では、予測はどう語ればよいのだろうか。
ほんの5、6年前まで、学生が卒業研究のテーマに排出権取引の評価やエネルギー問題の長期シミュレーション分析を選べば、卒研発表会では「それができたらノーベル賞ものだね」とか「当たらなかったらどうするの?」などとからかわれたことが何度もあった。良い予測とは、未来がその予測通 りになることだ、という誤解は、今でもしばしば見かけるものである。
筆者は、大学で「予測」の問題を講義する際、特に長期予測と短期予測の意義と目的の違いにやや時間をかけ、特に前者の説明には次の二つの例から話を始めることとしている。
最初の例は、こうである。
「『自転車に乗っていると、前に川があった。このまままっすぐ進むと川に落ちると予測した。そこでハンドルを右に切ったので、落ちずにすんだ。』結果 的に川に落ちずにすんだこの人の『予測』は正しかったのか、それとも間違っていたのだろうか。予測の正しさを言うためには、川に落ちて見せなければならない、というのは馬鹿げていないだろうか。自然科学の世界でなら、同じ条件の実験を行い、『確かにまっすぐ行けば川に落ちた』のか『そのまま行っても大丈夫』とするかについて何らかの結論を出せるかもしれない。しかし、それが前者の確率が10%という結論ならどうだろうか。予測の誤りであった可能性は高くとも、『ハンドルを切った』行為は正しい行動だった、と誰しも納得できるのではないだろうか。」
もう一つの例は、有名な報知新聞1901年1月2,3日の「二十世紀の予言」である。
「This is 読売」誌1998年1月号に復刻版とともに掲載されたので、全貌をご存知の方も多いと思われる。この23件の予言はどれを取っても大変興味深いのだが、ここから2つの例を取り上げる。
「鉄道の速力:・・葉巻煙草形の機関車は大成せられ、列車はあらゆる便を備え・・東京神戸間は二時間半を要すべし・・。」
「人と獣との会話自在:獣語の研究進歩して・・下女下男の地位 は多く犬によりて占められ犬が人の使いに歩く世となるべし。」
学生たちは誰しも、前者の予言の的中度に驚き、後者の予言に笑う。 しかし、日清戦争勝利の余韻の残るこの時期に、この明治の識者が「人皆、異国人の下女下男を使うべし。」とは書かなかった点に注意をしなければならない。「『当時の世に足らないもの$あるべきでないものが、二十世紀には技術により補われるようになろう』と予測した点で一貫している。」と説明を加えれば、学生たちもこの「予測」の意義に気づいてくれる。長期「予測」では、論理だけでなく、過去と現在に対する洞察力と想像力が重要な役割を果 たすのである。しかし、さらに学生たちに「では21世紀の予言をしてみなさい。」と課題を出すと、あまり面 白い答えは返ってこないのが実状である。
豊富な書物やインターネットのおかげで、情報は手の届く所に、いつでも、いくらでもとてもわかりやすい形で拾えるようになった。エネルギー問題でも地球温暖化問題でも、レポートをまとめるためならそれは困難ではない。
けれども、-私自身を含め-それらの情報が示す未来像に、どれだけの「想像力」を働かせてその世界をイメージできているのか、しばしば不安にならざるを得ない。より多くの情報はより正しい判断の材料となる。しかし、情報はあくまで「既存のもの」でしかない。想像力で「不足した情報を補う」ことを忘れていれば、「今だかつて存在しないもの」に挑む動機は次第に枯渇するだろう。
明治の識者はコンピュータ制御された家電製品は想像できなかったけれども、家事労働の大変さと下女下男という存在の将来は見通 していた。明治の識者以上の情報を手にしているはずの現世代は、21世紀に対しどのような予測図を描けるだろうか。22世紀近くに我々のレポートを眼にする人々は、そこに明治の識者以上のものを見て取ってくれるのだろうか、それとも情報と引き換えに「想像力」を失い、右往左往するばかりの姿を見るのだろうか?