1998年7月をもって、「アジアの中の日本を考える」研究委員会(委員長、白石隆京都大学教授)は一応終了した。白石先生はじめ委員各位 、また講師の先生方に厚く御礼申し上げたい。研究会の内容は本年12月をめどに報告書としてまとめられる予定である。(現在原稿執筆依頼中)ここでは研究委員会の討議内容とは直接関係しないが、昨今のアジア経済をめぐって引き起こされている議論の一部を紹介してみたい。
ハーバート国際開発研究所のジェフリー・サックス所長は、ほんの2年前にこう述べている。「1820年にアジアは世界の財・サービスの58%を産出していた。すなわち、1820年にアジアのGDPは世界の58%を占めていたことになると信じられる。」そして続けて、彼の研究所の試算によれば、2050年までにアジアのGDPは世界の58%になると論じている。アジアの世界に占めるGDPの割合は1940年に最低に落ちて19%を数えるのみであったが1992年には37%と伸びてきており、合理的前提に立つなら、200年を経て「アジアの再興」は成ると世界は信じられていた。「アジアの奇跡」「アジアの時代」「エマージングエコノミー」という言葉がマスコミを賑わせたのもこの頃のことであった。アジア開発銀行もほぼ同様の見通 しを1997年に発刊した「エマージング・アジア」という本の序のなかで述べている。
1997年以前には「アジアの価値感」についてのシンポジウムがあちこちで開催され、儒教やら家族主義、対立を避ける共存共栄主義など、経済発展に及ぼした好影響のエッセンスが盛んに討議された。価値観の議論ばかりでなく実際の制度改革も進んだ。インドネシア、タイなどは世界銀行の優等生といわれ、金融自由化政策を推し進めていった。インドネシア大学の経済学部は米国のフォード財団が寄付したものである。さらに米国は国策として優秀な学生を米国へ留学させ、米国流の経済政策を学ばせた。こうして米国でMBA,PhDを取得したインドネシア人エコノミストの一団(バークレーマフィアと呼ばれた)が、国の経済体制を世銀の指導のもとアメリカンスタンダードにもっていったわけである。
そしてその結果はどうなったか。あまりにも自由化を急ぎすぎた、とかアジア的馴れ合い主義が経済の破綻をもたらしたと識者はいう。それは「先生のいう通 りにやりましたので成績が上がりました」と言って、先生に誉められていた生徒が「どうも最近、成績不振で・・」とこぼしたら「それは先生のいう通 りにしたからだ」と先生に怒られたようなもので、生徒としては立つ瀬がない。これまで経済の発展を支えてきた価値観、システムが実は経済崩壊の原因だったというのだ。つい10年前まで官民協力、護送船団方式、年功序列賃金、終身雇用などの日本的制度こそ日本の経済発展の原動力だといわれてきた。しかし、それら経済発展に寄与した制度が、今は日本経済不振の元凶といわれているのと同様だ。
ワシントンにある国際経済研究所(IIE)のフレッド・バーグステン所長は「グローバル危機に対する新戦略」(A New Strategy for the Global crisis)の中でこのアジア危機からの回復には間違いなく、5,6年を要するだろうと述べた後で、「雁行型経済発展」の雁たち(flying geese)は、長期的には死んだアヒルの固まり(a flock of dead ducks)になってしまうだろうと日本を含めたアジアをこき下ろしている。
良いときは持ち上げて、落ち目になると徹底的に叩く、というのは日本のジャーナリズムだけの習性ではないようだ。
ほんの30年前まで、アジアには「暗黒の」とか「従属の」とか「停滞の」という形容がついて、決してアジアの経済発展はないといわれてきた。マルクスもマックス・ウェーバーもジョン・ガンサーもアジアは絶対発展しないと書いている。
ひどい学者になると、あのあたりは暖かいので、苦労しなくてもバナナなどの食料が簡単に手に入るから人は働く気力が起こらない、だから工業化しないとまじめに論じていた。80年、90年代のアジアの産業発展を見ていると、「責任者出てこい」と言いたくなる。もっとも、120年ほど前、「この国の人民はまず時間を守る習慣がない、お祭りに金を使いすぎて貯蓄観念がない、怠け者だ、だからこの国が発展することはないだろう」と英国人外交官が決めつけた国は、日本であった。同様に1947年に次のような報告が出た。「労働者はきつい仕事を嫌い、楽な仕事に就きたがる、みんなとても怠け者である。賃金は上昇し、企業の生産性は下がり、非効率的であり、多額の補助金を受けている。この国は国際的市場ではなく人口も多すぎて、さらに増えていく。」
この報告を前に、その国の首相はもう今が最後のチャンスだと結論づけた。つまり、この国が何とか独り立ちするか、あるいは永久に世界のお荷物となってしまうかということだ。この国の名前は日本であり、首相の名前は片山哲であった。1947年においては日本がダイナミックな経済大国になろうとは為政者でさえ想像していなかったのである。だから「暗黒のアジア」と言ったからといって、マルクスやウェーバーを非難するのは妥当ではない。
ところで、従来の発展途上国開発理論によると、発展途上国が工業化するためには、まずインフラ(道路、港湾、通 信網など)を整備して、基礎教育を普及して、国内市場を整備拡大することから始めなければならない、とされてきた。そして、農村部で手工業的な産業が起こり、そこで蓄積された資本が都市部へ流れ、そこで国内市場向けの輸入代替産業が興る。ここでは政府の保護政策は重要である。ひ弱な途上国の幼い工業は輸入代替産業を興し、それによって経営ノウハウと資本の蓄積を行い、技術者、管理者を育てて、やがて輸出産業へと、国の産業構造を代えていく、というのが19世紀中頃のアメリカ、ドイツ、明治時代の日本が辿った工業化への道だった。
ところが1980年代以降に工業化したアジア諸国では、このような手順を踏んでいない。中国やタイ、インドネシアの農村部で資本蓄積が行われた形跡がないのだ。いきなり輸出産業が登場したのである。資本はどこから来たかと言うと、まず日本、米国、欧州からの外国資本だった。パソコン、テレビ、ビデオなどの電化製品の製造、組み立てには、当初の充分な資本の注入さえあれば、後はそれほどの技術は要らない。主要部品は先進国からの輸入品であるから、先進国で製造したものと同じ性能をもつ製品ができ上がる。これらの工場の投下資本回収率は3-5年と、大変短い。だから製造業にはあまり関心のなかった華人資本もエレクトロニクス分野にどっと参入してきた。輸出先はもちろん先進諸国である。輸出産業の興隆により、確かに一人当たりのGDPは上がったし、富裕な人も増えた。しかし、その豊かさは一部の人にしか及ばなかった。例えば、タイでは人口の70%を占める農民の所得分配率は年々下がっている。簡単にいうと貧富の差は拡大しているということだ。これは中国や他のアジア諸国でも見られる現象だ。マクロ経済学者はアジア諸国調査にいき、政府関係機関で得たデータをもとに経済成長を論じる。あるいは経済の危機を論じる。それも必要なことである。しかし戦後ずっとタイの農村をみてきた富山国際大学の田中忠治教授は、東南アジア社会に貧困を再生産するメカニズムの存在を指摘し、社会構造、貧困の質、文化の面 にわたってアジアは何も変わっていないと言う。そういった意見も貴重である。今再び、IMFの優等生といわれているタイは、昨年16回目の憲法改正を行い、上下両院議員の資格として、今まで見られなかった学歴条項を入れた。大学卒業か同程度の学識を持った人しか国会議員になれなくなったのである。国民の70%を占める農民層から国会議員になる可能性は皆無となったといっても過言ではない。
経済成長、民主化、生活水準の向上、社会の安定と正義の実現、それらはアジアにおいては同時に達成されることでは決してないのかもしれない。
自力で経済成長したように見えたのも、外国資本を用い、先進諸国に輸出する製品を、先進諸国の部品で組み立てていただけで、先進国の掌の上での経済成長だったという人もいる。もうアジアは、「暗黒」や「停滞」のアジアではない。しかし、社会発展を含め、自らの発展を遂げていないという意味ではいまだにアジアは「従属のアジア」といわれても仕方ないのかもしれない。
アジアと日本の経済関係は、1980年半ばを境に輸出入の双方向で関係が急速に深まった。85年における日本の輸出入に占めるアジア向けのシェアは20%台後半であったのに対して、90年代には40%前後まで上昇し、最大の貿易ウェートを占めるようになった。また、資本取引面 を見ると、85年のプラザ合意以降、円高・ドル安によって加速された日本企業による生産拠点の海外シフトの動きを反映して、アジアへの直接投資は大きく増大した。85年の14億ドルから90年には71億ドルにまで増加し、さらに97年には122億ドルに達した(いずれも届け出ベース)。アジアと日本の貿易関係は質的変化をとげた。つまり70年代までは、日本がアジアから天然資源を輸入しその加工製品を輸出するという構造であったが、80年代半ば以降は、電化製品に特徴的に見られるように、日本が部品や半製品をアジア諸国に輸出しアジア地域でそれを加工組み立てし、完成品を日本や欧米地域に輸出する、という貿易構造ができ上がってきた。この結果 、日本のアジアからの製品輸入は飛躍的に増加し、今や、アジアからの輸入の7割を製品輸入が占めるに至っている。つまり、新しい国際分業体制が確立したわけである。この強い相互依存関係を捉えて、「日本がしっかりしないと、アジアが、世界経済が駄 目になってしまう、だから日本は金融システムを立て直し、構造改革を実行し、景気回復に努めよ、そのために日本はリーダーシップを発揮せよ。」と内外から言われている。
しかし、97年以来のアジア経済危機、続くロシア危機は日本のせいで起こったのではない。グローバルデフレ下で行き場を失った資金が暴虐な動きをしたからに他ならない。短期資本の急激な流出入やデリバティブがそれである。マレーシアのマハティール首相はヘッジファンドを「国際山賊団」と呼んだが、それを冷笑する人は少なくなったようだ。ノーベル賞を受賞した経済学者の高等数学を駆使し、市場が上昇しても下落しても収益を確保する「絶対リターン」の欲望神話を、ヘッジファンドは実現したといわれたものだ。しかしその現代錬金術のメッキははげ、その巨大な投機活動は次々に失敗している。98年9月末破綻したLTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)は8月末の資本金22億ドルであったのに対し、銀行から120億ドルという巨額資金を借り入れて証券を購入し、これを担保にデリバティブや先物取引など投機的金融契約(常識的な言葉では博打)でなんと1兆2500億ドルを運用していたといわれる。22万円しか手持ち資金の無い人が1億2500万円の相場を張っているとしたら「これはやばいんじゃないの」と思うのが普通 だろう。大体「必ず儲かる」ということ自体、ネズミ講や豊田商法を引き合いに出すまでもなく、いかがわしいものだ。大蔵省の榊原財務官も「実体経済が2%成長のときに金融資産だけ20%の成長を続けることは理論的にありえない」と述べている。(98年10月30日付日本経済新聞)
不思議なことに、日本を含むアジア各国に対して、自己責任と、市場経済原理にしたがって不良金融機関はつぶせといっている米国が、博打で失敗した(と私は考えるのだが)LTCMの危機には緊急救済融資を組んだ。
米国の公的資金は投入されなかったものの、事実上無審査で行われる協調融資に抵抗した銀行にはグリーンスパン連銀議長やNY連銀総裁の「公的要請圧力」が行使された事実が明らかにされている。また、アジア諸国は、ヘッジファンドの規制と情報公開を訴えているが、米国はまったく動こうとしない。アジアに、ロシアに、中南米に、いつ・誰が・どれだけのファンドを仕掛けてくるのか、この情報は公開されない。この点では米国の制度には透明性はないのである。
ヘッジファンドの数は増え続け、98年中には5千を超えると見られており、大損失を出してもLTCMのように救済されるとわかればさらに大胆な投資戦略に乗り出してくることは充分に考えられる。そしてそのいきつく先は、世界の金融システムの制度的危機とモラルハザードであると、関東学院大学の奥村皓一教授は警告している(エコノミスト10月27日号、手負いのハゲ鷹が世界をかき乱している)。
こういった中で日本のリーダーシップは、となるといささか心もとない。リーダーシップは国や組織が取るのではなく、個人が取るのである。「僭越ではあるがリーダーシップを発揮させていただいた」といった奇怪な言辞を弄する人がトップの国では、他を説得し、みずからの信念を貫くというのは難しいのかもしれない。確かに金融、ヘッジファンドの分野で、日本やアジア諸国が世界の中心になることは考えられない。せめて日本とアジアは、よって立つところの意味を考えて、地道に「モノ作り」の面 で世界に貢献する方法を考えていくしか他に道はないのだろう。
(文責,事務局 中西英樹)