’98年12月2日、ダイモンドホテルにて、標記の国際シンポジウムを開催した。1998年は当研究所創立10周年にあたっており、記念パーティも併せて行われた。シンポジウムの内、セッション2のジャン・ピエール・レーマン氏(スイスIMD大学教授)とジョン・ドナヒュー氏(ハーバード大学準教授)のプレゼンテイションの概要を以下に要約し紹介する。
レーマン氏:グローバリゼーションにおけるヨーロッパのジレンマ
7つのサブテーマに分けて見方を話したい。第1に、ヨーロッパで、最初に強調すべきことは、この10年間の展開は本当に目覚ましいものがあった。90年代、欧州領域が大陸を通 して広がり、民主主義国家が台頭し、市場経済が台頭し、そして、これは残念な例外、バルカン諸国を除いて、平和が普遍化された。70年代における南欧のファシズムの根絶、そして80年代後半から90年代の東欧における共産主義の終焉に象徴的に見らる。20世紀は非常に悲惨な世紀で、二つの戦争がヨーロッパに対して、またヨーロッパから出た。1914年以来、ヨーロッパが経験してきたことと今達成していること、ここにヨーロッパ人すべての心があり、一つの原点がある。ヨーロッパは博物館的な存在と言われてきたが、この大転換を見ると、ヨーロッパは、21世紀に向けて、大きなグローバルな役割を保持し続けるであろう。
第2に、ヨーロッパの統合の深化、そしてグローバライゼーションへの対応である。欧州通 貨同盟は、懐疑的な見方があったが予想に反して実行されるに至っている。非常に高いレベルので市場統合が実現し、ヨーロッパがグローバルに経済的な広がりを持っていく。3億人の人口を擁した単一市場が登場するわけで、これは世界生産額の約20%に相当する。ユーロにはまだ不確実性があるが、こうした形で基軸的通 貨が一つ加わることは、世界経済にとってやはりプラスの要因になる。
言語の問題でも、英語が域内においても実質的なグローバルな言語にもなってきている。実務レベルでは英語がヨーロッパ言語になってきている。このようにヨーロッパにおける統合が今深く進行していることは非常な朗報である。また、貿易や経済問題で、ヨーロッパからさまざまな異議の声があって混乱させられてきた。しかし、今では欧州における声は単一化されてきており、ブリュッセルにおけるさまざまな規制、行政における管理においてもますます統合が進んでいる。
第3のテーマとして、残念ながらマイナスの面 もある。第一に、経済統合の進展は別として、政治的な側面に目を向けると、非常に大きなコントラスト、政治的な細分化の問題を抱え、共通 のアイデンティティーが欠如している。第二に、統合は確かに進んでいるが、リーダーシップはまだ見られない。リーダーシップはまだつくり出していない。安定している時にはそれほど強い指導力は求められないかもしれない。しかし、実際に、例えばバルカン諸国での紛争では、ヨーロッパの努力はうまくゆかず、リーダーシップが発揮されなかった。ほかのグローバルな問題についても、リーダーシップの欠如がなかなか改善に結びつかない。これを近い将来達成するのは難しいだろう。
第4の課題は、ガバナンスにおけるヨーロッパモデルを模索してゆかなければならない点である。大陸ヨーロッパ、欧州連合は、社会的な問題として、非常に高い失業率あるいは移民などの排斥といった問題を抱えている。これは社会的な不安でもある。人口の高齢化という大きな課題も抱えている。こうした問題では、ヨーロッパのガバナンスのモデルは古いものになってしまった。福祉国家の代表のように言われていたところも崩壊してしまった。ヨーロッパは、その意味では、現在しかるべき方向性を持たない、こうしたガバナンスの問題に直面 している。一方で、ヨーロッパの政治的な地図が今かきかえられつつある。左派連立政権とか、社会民主主義、そして中道国家と呼ばれるもの、4つの主要なヨーロッパの国々がピンク、赤、緑に塗りかえられる。10年前は考えられない大きな変化、重要な展開である。恐らくこの10年位 これらの色で埋まってしまうのではないか。これは何を意味するか。第3の道、これまでとは違う道を選ぶという言い方をしている。ただ、第3の道は今のところ余り中身がない。ヨーロッパの有権者や代表者は、手さぐり状態で解決策を模索しようとしているその一環だと思う。ヨーロッパは、政府のシステムの中では、やはり社会的な制度あるいは環境的な責任を強調する社会だと考えらる。それらが非常に重要な問題であり続けるだろう。
第5のトピックとして、国家と企業との間の溝が非常に拡大し乖離してきている。企業、ビジネスコミュニティーでは、もうアメリカ式を取り入れた。しかしながら、ヨーロッパの国々そのものはアメリカ式の資本主義をおおむね拒否してしまった。ここに非常に大きな対比がある。いろいろな企業の間での吸収合併がヨーロッパでは今あちこちで起きていて、新しいヨーロッパの企業空間が出てくると思う。しかし、国家を見ると、国内政治一辺倒である。企業は市場を大事に、しかし、政府は市場に対して不信感を持っている。グローバル化している企業と各国政府との間の乖離がどんどんと拡大している。
第6の点、ポスト近代化社会とは一体どういうものなのか。その中で政府の役割とは何なのか。西欧ヨーロッパ社会とその近隣にポスト近代化社会が出てきている。これはIT技術、電気通 信的技術の改革的な加速的な発展があってさらに強化されている。その結果 、ナショナリズム、それを象徴する徴兵制度などもどんどんとなくなってきている。ナショナリズムは基盤から侵されてきている。そのかわりに多元主義、細分化、個人主義、ローカル主義、複数のものへの忠誠心、世俗主義、そういうものがポスト近代化社会の特徴として出てきている。国家というと、前近代あるいは近代社会ではいろいろエスタブリッシュメントを、すべてその中に内包していた。今の国家は、非常に多元主義で、複数の側面 を持っている。そして、そのそれぞれがいろいろと政治に影響力を持つようになってきている。例えば、NGOはヨーロッパ社会では非常に大きく伸びていて、政治学的に非常におもしろい現象がでている。
現代ヨーロッパを見ると、本当に国家はその役割の大きな部分を失った。経済的、政治的、社会的、知的、倫理的なそういう力を失ってきた。しかし、そのとってかわるものは何なのかという新しい役割はまだ定義されていない。新しい社会の中で国家がどういうような役割を持つのか、どういう権力を持つのかがわからない状況と言えるだろう。
第7のテーマで、ガバナンスのモデルを3つにパタン化してみる。その前に、グローバル化は逆行させることはできないが、それは異質性の中でのグローバル化で、グローバル化イコール同質化ではない。
ここには大きく3つのガバナンスのモデルがある。その一つはアメリカの市場ヘゲモニー、ガバナンスのアメリカ式やり方である。それは市場に対する信任を最も重視する。次は、新儒教主義的な秩序で、これもガバナンスも一つの形態である。もう一つがヨーロッパのポストモダン・ガバナンスである。
この3つの中で、アメリカの市場ヘゲモニーは今大変台頭してきているが、上がるものはいつか下がる。日本は余りにも速く上昇し過ぎた。そして今、下降する痛みを味わっている。アメリカの市場覇権主義も、いずれ消えていくものになるのではないか。アメリカが持っているような、管理がまったくされない市場システムの維持コストは、受け入れられない位 高くなっていくはずである。
2つ目の新儒教主義的な秩序、これはアジア式の秩序であるが、これは今日本が極度のリセッションに陥っているということで信任を失ってきている。さらに、東アジアのほかの国々で経済危機を起こしている。これは経済的な危機であると同時に、イデオロギー的な危機でもある。アジアの価値観、秩序ある権威主義的政権、これが政治的な正当性をどこまで持ちうるか。この秩序にはかげりがでている。
次に、ヨーロッパのポストモダンであるが、これは純粋な市場経済主義を拒否するものである。ある意味で社会政治的な一つの無秩序を意味するものであるが、これはヨーロッパの歴史的な経験の中から生まれてきたものであり、ほかのグローバルなセッティングには、少なくとも簡単には、移殖することはできないものである。 ガバナンスという点から見て、グローバル・ガバナンスの風景は、それを特徴づける傾向として、異質性、いろいろなシステムの競合、さらに言えば健全で秩序ある枠組みの欠如が特徴になるのではないか。秩序を求めれば、グローバル・ガバナンスにおいて、我々は失望するのではないだろうか。
今世界は移行期にある。秩序をつくり出そうとするよりも、無秩序をうまく管理していくことが必要なのである。グローバルな市場は、分断されるより確かに統合されるであろう。しかし、そこで地域を横断するような形でのシステムには摩擦などが起こり、政治的には非常な遠心力が働いてしまうと思う。今後、社会的な問題や環境問題が一番大きな戦場となっていくかもしれない。また、社会と多国籍企業の関係は世界中でもっと緊張を強めていくのではないか。グローバルな緊張関係をうまく管理していくことが一番重要な、急を要するチャレンジであるだろう。これは、政治団体にとっても、企業にとっても、オピニオン・リーダーにとってもそうであろう。
ドナヒュー氏:非均質に統合された世界での制度設計のクラフトマンシップ
世界経済は制度設計のもとで最終的には統合されていく。新しい制度をつくる、既存制度の改革をするのは政治的な行動であり、公共の目的に構造化されていく。よい制度設計はその組織の共通 の価値と目標に沿う制度構造になり、その組織が運営されてゆく幅広いコンテクトに合うものになる。
こういう制度的な構造をつくるにはいろいろな専門知識が必要である。例えば、基礎的な価値を位 置づける哲学者、目標とその優先順位をつけるための政治家、行動を予測し、インセンティブなどを追いかける経済学者、行動を理解し幅広い文脈で理解する社会学者、などが必要であろう。
中でも特別な制度は、経済の規制組織、市場を規制する組織などである。それには特別 な設計が必要である。それは、かかわってくる利害が非常に大きいこと、市場の力は、時に強力になったり、弱くなったりし、また、制度的な介入をすることによって、市場の力を奪ったり、あるいは弱めたりするということもあるからである。
経済の制度的な設計は、家と、火と、暖炉、に例えることができよう。家は社会、あるいは文化といってもいい。市場が火である。うまくコントロールし、封じ込めていれば火は家を暖かくすることができる。しかしながら、コントロールされないと、家を燃やしてしまう。組織としては、この火を正しいやり方で導いてやらなければならない。危険性を最小にする方法を考え、一番暖かくなるようにしなければいけない。そうして市場の活力を最大に生かし、かつリスクや破綻をなくすことができる。
特別な中でも一番特別なケースは、国境を越える経済制度を設計することである。これは非常な大仕事である。この場合の家は非常に複雑な構造を持っており、家もたくさんある。そこに住んでいる人も、いろんな好み、あるいは優先課題を持っている。国際市場という火が予期しない形で燃え上がったり、あるいは治まったりする。世界の市場は、今急速に統合化が進んでいる。例えOECD諸国であろうと、発展途上国であろうと、その繁栄は市場の力に依存してきている。それだけグローバルな経済組織を、緩い形で設計するためのニーズが非常に高まってきている。この40年、50年位 そういう努力を続けてきた。
さて、世界の経済をガバナンスするということで考えれば、6つのモデルが考えられる。第1は、無統制市場である。原理主義的な自由放任主義者は喜ぶかもしれないが、大変なことが起こるかもしれない。多くの人が無統制市場には恐怖感を持っていて、いろんな抵抗などが生まれてくる。文化覇権主義とか、主権と国家間の平等の喪失とかの懸念、市場が依存する構造が破壊される恐怖感がでてくる。
2番目のモデルは、覇権主義というものである。国際的な制度設計にとって余りにも単純化した言葉であるが、制度が一つの支配的な国、あるいは、ある支配的なグループの利益に沿ってつくられるケースである。最近ではアメリカが支配的な国になると思われている。今は市場の力が大きくなり、市場への参加者も増えて多様化しているので現実味が薄れてきていると思う。とはいっても、OECDとか、そういう特定のグループが大きな影響を持つのは避けられないことであろう。
3番目のモデルは、市場統合の放棄である。つまり適切な暖炉を造る試みを放棄して、逆に火に水をかけてしまうことである。これは貿易障壁とか、資本のコントロールとか、あるいは情報と人の流れに大きな制限を加えるものである。常にこの議論は起きてくるが、まだ声は大きくない。
4番目は、聞こえはいいが、秩序ある国境ということである。グローバル市場の利益は享受しながら、圧力の方は国内制度というフィルターを通 すということである。しかし、これは非常に難しいものである。フィルターをかけるのはいいが、その公平さをどこで決めるのか。中間的なインターフェースが必要であるが、その調整は非常に複雑で、ともすれば、無統制市場、統合の放棄に至るリスクがある。
5番目は、協力的なネットワークである。政府の行動の間に調整を行うことで、制度は国内的な制度であるが、それを非常に綿密に調整していく。例えば、バーゼル協定であるとか、あるいはEUにおける国内ルールの共通 承認などがその例である。この秩序ある国境には、制度の調整のために仲介とか、妥協とか、調整が必要である。また、国際主義者と国内重視派との間の緊張が常に続くことになる。
6番目のモデルは、一番現実性に欠けているが、一番純粋なモデルでもある。それは深い統合というモデルである。真に共通 するような組織や制度を設立するわけである。目標や価値観を本当に共有するものである。これは国際主義者の夢であり、ある部分で達成されることもあるが、失望することも多い。
これらの6つのモデル、あるいは代替案を評価する場合も含め、その評価の基準には4つの側面 がある。その1つは、効率性、効果があるかである。その組織制度が、その目標を本当に達成できるか、必要な資源や権限を持っているかである。2つ目の基準は、適合性である。それを支持、委任している支持母体の人たちの希望と両立する設計であるかである。3つ目は、強固であるか、いろんなショックに耐えられるかである。また目的や到達点が違っていくのに合わせて、みずからも調整していけるかである。4つ目は、一番微妙なものであるが、正当性あるいは合法性である。この正当性を考えると、要求するところがさらに多くなる。正当性は、ただ単にその制度が支持母体により容認される、あるいは利用価値があると思われるだけではなく、実際にその犠牲を強いるまでの力を持つかどうかである。
それぞれのモデルにはこうした点で弱点も強い点もある。例えば、覇権主義的な場合、これは効率性ということでは強いが、正当性では弱い。そして余り強固ではない。これは、例えば、IMFや世界銀行、WTOなども該当するとも言える。アメリカの足跡が強すぎるとも言われている。
次に秩序ある国境の場合、これは正当性では強い。しかし、効率性ということではいろいろと問題がある。例えば、このモデルでは制度が危うくされる危険、非常に危ういバランスがある。グローバルマーケットのコントロールが余りにあり過ぎるとか、少な過ぎるとかである。次の政府間の協力のネットワークは効果 的ではあり得る。また、不均質なまま統合された世界では、より現実的な適合性をもたらすこともできよう。しかし、ここで一番欠落しているのは正当性である。こうした政府間のネットワークは、国内の文化にはあまり大きな基盤を持っていない。従って、余り容認されないし、実際に犠牲を強いることもできない。そして、深い統合であるが、これは正当性を欠くのが一番大きな欠点である。国際的な経済規制など、ある例外的なものを除いて、納得される正当性がない。違った文化は、共通 の制度を許すにしても、違った道があるわけであるからである。世界司法裁判所などが一つの例になる。
ここでアメリカのアプローチについてコメントしたい。多くの人がアメリカの考えがよく判らない、特に制度設計では、アメリカのアプローチには困惑してしまうと言う。他の国々の規範、制度設計は有機的な発生物であると考えられているが、アメリカの場合には、こうした制度設計は、非常に抽象的な知的作業として見ているわけである。
アメリカ合衆国の憲法の例をみればよい。それはイギリスからのルーツを断ち切った上でつくられた。210年前にその憲法をつくり、それが今もアメリカにはある。歴史を見るとアメリカが非常に分析に基づいた制度設計に熱意を持っていることが判る。アメリカ人は抽象性を好んでやっていく。アメリカ人はそういう一般 的なルールを強く信じている。アメリカ人が制度をつくるときに、市場の力を抑えてゆく上でも、やはり論理の力を強く信じる。一方、文化に合わせていろいろと変えていくことを軽視する傾向があり、これは時には自己倫理化、自己欺瞞に繋がるところもある。しかしながら、永続性があり、耐久力がある。これには別 の強味がある。例えば、オープンマインドであり、どのような制度設計が欲しいのか、どういう制度構想が欲しいのか、どういうインセンティブをもたらすのか、どのような説明責任が必要とされているのかなど、オープンに考えることができる。弱点として、最適ではないといってよいものまで捨ててしまう傾向や、得られる成果 を十分に評価せず勢いに流されるということもある。また、素朴な文化的な要請は、正当性からみて狭い利益団体のためだけのものと考える傾向もある。
最後の結論であるが、どうすれば強い経済制度の暖炉がつくれるのかである。今はまだみえない。これを造ろうとすると、200位 の要素が必要になる。グローバルな市場の制度を造ることであるから、それぞれ文化のいろんな側面 を取り入れてゆく必要がある。そうでなければ強固なものはできない。これからの作業を考えると、今までのものはまるで幼稚で易しくみえる。短期的には失敗する例もあると思う。しかしながら、最悪のこと、グローバルな経済的実験で混乱や孤立主義がもたらされるのは、どうやら回避されたようである。しかし、貿易にしろ、投資にしろ、金融の流れにしろ、グローバルな体制としての適切な形が今後強く求められてゆくことになる。その制度設計には、非常な忍耐力が必要である。今、まさに移行期であるが、我々は長期にわたって不断に新しい構築に向かってゆく必要がある。