TRIPS協定(「知的財産権の貿易的側面に関する協定」)はWTO(世界貿易機関)協定の一つとして1995年に発効したが、2000年1月から開発途上国にも同協定の履行義務が発生している(ただし所得水準が非常に低い後発途上国では2006年から適用される)。現在は適用が免除されている医薬品などの物質特許にも2005年から適用義務が発生する。
TRIPS協定は、多くの開発途上国にとって短期的には大きな負担となる。第1に知的財産権保護の実施体制を整えるコストがかかる。第2には先進国で開発された技術を自国企業が自由に使うことが制限される。第3に自国における製造能力如何によらず、知的財産権の保護強化によって侵害品の供給は減少し、真性商品の価格が上昇する。このためTRIPS協定には特許権が大きな影響力を有している医薬品の分野を中心に、不満が強い。従来は、特許法があっても医薬品の特許を認めて来なかった国も多く、工業化がある程度進んだ国は先進国で開発された医薬品の模倣品を容易に製造できた。模倣品の製造企業が世界的には多数存在し、これらの企業間の競争によって、同じ効能を持つ薬の価格が先進国と比べてかなり低水準であった。TRIPS協定はこうした状況を大きく変更することになる。輸入自由化の場合は、自由化をした国も多くの場合に利益を得ることができるが、知的財産権保護の強化には短期的にはこのような効果はない。TRIPS協定が貿易の自由化を目的とした他の協定(GATT、GATS)と大きく異なる点である。
しかしながら、世界全体の研究開発の効率的な促進という観点から、知的財産権の保護に地域的な例外がない方が好ましい。新技術開発の固定費用を世界的にどのように負担をするのが最も効率的であるかには、以下の考慮が重要である。一度開発した技術の追加的な利用の拡大には費用はかからないので利用の拡大が望ましく、それには出来るだけ低価格が望ましいが、反面で低い価格では研究開発費用の回収が出来ない。このようなトレードオフ関係を効率的に調整する価格体系(ラムゼー価格)は、価格を上昇させても需要が減少しない市場で高い価格を設定し、逆の市場では低い価格を設定すること、すなわち価格弾力性に応じた価格の設定である。所得が低い国では需要の価格弾力性が大きいので低い価格を設定するのが効率的である。したがって開発途上国で設定すべき価格は低いが、ゼロではない。
ラムゼー価格に近い価格の選択を可能にするには、低所得国から高所得国への並行輸入が制限される必要性がある。これによって企業は所得の低い国では低い価格を設定し、同時に所得の高い国で高い価格を設定することが可能となる。先進国企業によるこのような価格設定はダンピングであり不公正との意見があるかもしれないが、所得に応じた価格設定は所得分配の観点から公正を促進する。現行のTRIPS協定上は知的財産権の国際消尽を認めるかどうかを各国が自由に選択できることになっている。消尽を義務化した方が自国の価格が低下するから良いとするのは短絡的な意見である。先進国で途上国からの輸入について消尽を認めることは、途上国への低価格での供給を困難にする危険がある。なお、契約による地域制限で差別価格を行う手段もあるが、先進国と開発途上国の間では所得格差が大きく、契約の直接の対象ではない第三者(小売り段階)による並行輸入が存在しうるので、十分効果的かどうかは疑わしい。
同時に、TRIPS協定の実施体制を開発途上国が整えていくのを助けるための協力も重要である。途上国においては知的財産権を保護するための法制の整備のみならず、特許審査、侵害事件への円滑な対応など法の執行体制の整備も急務である。先進国は、審査面の協力やこのような人材育成のために強力な支援を行っていく必要があろう。また、途上国の企業が研究開発や知的財産管理の分野の体制を整えるための協力も重要であろう。知的財産権の保護が長期的に見て発展途上国にとっても利益となるには、それによって国内市場や国内の生産条件にあった研究開発が促されるかにかかっている。最後に、アフリカの一部諸国のように、貧困の度合いが大きいために商業的なベースでは十分な医療サービスが供給できない国への人道的な援助を積極的に進めていくことも重要である。知的財産権保護強化によって必須医薬品の価格が上昇した場合、これを補償する援助強化は当然必要である。このような措置によって貧困国における医療水準の向上と知的財産権の保護は両立する。