2003年4号

エネルギー問題の社会性

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 エネルギー問題に三十年に渡って一ジャーナリストとして関わってきた。そうあの第一次石油危機の時からである。今年は、だから、この秋で石油危機三十年、「エネルギー記者三十年」ということになってしまった。

 記念すべきというのはおかしいのだが、エネルギー問題を考えるにはひとつの節目ということはできるだろう。折りしもイラク戦争に加えて、東京電力の原子力データ改ざん・隠ぺい事件で原子力発電が全て止まるという事態まであり、関東大停電が心配されている。

 皮肉なことに、この原因は海外になく、国内にある。

 危機後三十年、エネルギーを見る視点もこの間に大きく変わらざるを得なかったということのようだ。多少の感慨なしとしない。

 この間の変化を自分なりに考えてみた。一次危機、さらにこれに続く二次危機を通じて、我々は日本のエネルギー状況の脆弱性を嫌というほど知らされた。エネルギー
は安定供給が第一。極めて単純な認識であったが、明確でもあった。

 しかし、今、これに経済性はどうか、とエネルギー自由化が大きな問題となり、さらに環境面からはどうかという評価の視点も加わってきた。安定供給問題は大き後退したと言っても、そう間違いではないように思える。少なくとも安定供給だけで、エネルギーを考えることはできず、経済性、環境の視点を欠かすことができない。

 それではこの三つ視点で十分かというと大きな疑問がある。欠けたところを補うとすれば何か。ちょっと未成熟な言葉となるが、敢えて個人的に社会性としている。

 もう少し具体的に表現すると社会的評価、つまりエネルギーが社会的な評価に晒される時代になってきていたということである。さらに分かりやすく現実の問題に置き換えてみよう。今回の東電問題が格好の例となる。今回の事態は冷静に検討すると確かに改ざん・隠ぺいは事実であり、この点は東電も言い訳のしようもないだろう。それでもその事実とその結果の大停電の心配の間のバランスがいかにも悪い。

 こう言い換えてもいい。万引きも殺人も犯罪であるから、いずれもその罪、最高刑というのが今回の事態ではないだろうか。「原子力は特別な存在。微罪も許されることはない」。こうなるのだろうが、どこか、正し過ぎるが故の奇妙さはないか。「原子力には粉末ほどの瑕疵があっても『信頼』は得られない」ともされているようだが、『信頼』は必ずしも科学的、合理的なものではないから、地元の感情に傾いた判断にだけ委ねられ、「信頼がない」とされると、言われた方は返す言葉を失ってしまい、立ち往生することになる。

 これまでの流れはそうはいえないだろうか。まさにエネルギーの社会性という気がしてならないのだ。

 一方、この原子力とは対照的な社会的な存在が新エネルギーである。『信頼』の言葉はまだ似合わないのだが、「期待」ということでは新エネルギーが目下、最大の注目の的だ。

 「新エネルギーで原子力依存から脱出」といった声をあちこちで聞く。風力がある。太陽光がある。いや波力だって、というのだが、これらの新エネルギーが少なくとも当面、基幹エネルギーとならないことは間違いない。

 従ってこの比較はあまり意味がないのだが、「期待」が「現状」とが混同してきて、混乱を招いている。これも社会性の問題といえはしないだろうか。エネルギーが社会性を問われている。そう考えると今回の事態は分かりやすくなってくるように思えてならない。

 むろん、これも現実だ。あの山本常朝さえ、武士道の書「葉隠」のなかで、時代には逆らえないことを指摘している。いかなる時代でも現実は直視しなければならないのだろう。

 それでも危機後三十年と停電問題。どうしてもすんなりとは受け入れることができない。どこかにとてつもない陥穽がありはしないだろうか。どうやら、七月中旬、停電は回避される見通しになってきたが、エネルギーを覆う社会性の力は強まりこそすれ当面、静まることはないだろう。

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