1997年12月に京都議定書(以下議定書)が成立して早くも6年が経過した。2002年に日本やEUは批准したもののアメリカが早々と離脱しロシアも批准していないため、未だに発効していない。議定書では付属書I国(先進国および移行経済国、以下先進国等)のみが温室効果ガス(GHG)排出削減・抑制の義務を負ったが、対象期間は2008年から2012年の5年間のみであり、2013年以降については2005年に交渉開始と定められている。議定書発効の有無を問わず来年から京都以後(ポスト京都)の新たな枠組み作りの検討が本格化すると思われる。
まず明確にしておきたいことは、長期的には地球規模のGHG排出絶対量を現在の水準以下に抑えなければならないと言うことである。IPCC(気候変動に関する専門家パネル)第3次報告によれば、排出が急増している途上国も含め、今後100年程度で地球全体のGHG排出絶対量を現在以下にしなければ、産業革命時のおよそ2倍の濃度である550ppmでの安定化さえも不可能とされている。議定書の有無にかかわらず温暖化対策は必須である。議定書はこのための第一歩として、先進国等に排出絶対量の枠(キャップ)をはめた。我々はこの枠を遵守すべく最大限の努力をしている。
ここでキャップの意味を考えてみたい。当然のことながら先進国等は経済の状況にかかわらず、この枠内に排出量をとどめねばならない。極端な例を引けば、電力に対する需要が増大したら停電もあり得ると言うことである。経済学的な言い方をすれば、どんなにコストがかかっても排出量をキャップ以内にとどめると言うことである(排出権取引により各国のコストは平準化できるが、先進国等全体で見れば本質は変らない)。温暖化は公害と異なり被害が直接見えず、また、影響を受けるのは我々ではなく将来世代である。こうした中ではたして国民がこれを受け入れるであろうか。民主主義のもとでは政治家は国民の支持の得られない政策は実行できない。長期では世界規模での排出絶対量削減が必須であるが、短期のしかも少数国のみでのキャップの導入は極めて困難である。
こうした困難にもかかわらず、議定書において先進国等がキャップを受け入れた。しかし現実を見るとアメリカと途上国が特段の削減・抑制義務を負わず、議定書がカバーするのは世界全体のGHG排出量の三分の一という状況である。これでは実効性が極めて限られる。従って2013年以降の「ポスト京都」体制では何としてでもアメリカと主要途上国の参加が必須である。現在の議定書体制のままで(更に、第2約束期間でキャップを更に厳しくすることで)これは可能であろうか。残念ながらこのシナリオはあり得ないと考えざるを得ない。アメリカが議定書を離脱したのは基準年対比7%削減という目標遵守が(政治的に)不可能だからである。従って目標を更に厳しくする協定にアメリカが参加するわけがない。最近マッケイン=リーバーマン法案の投票結果などからアメリカの変化を読みとることができるが、ここで誤解してならないことはアメリカの態度の軟化と議定書への復帰は別物だと言うことである。これは善悪の問題ではなく事実認識の問題である。世界最大のCO2排出国であるアメリカが参加しなければ途上国もまた参加しない。途上国の排出量は20年後にはOECD諸国のそれを上回る。従って、2013年以降もアメリカと途上国が抜けた議定書は国際条約としての体をなさない。
それではどうするか。何としてもアメリカが参加する枠組みを構築しなければならない。その上で途上国の参加を呼びかけねばならない。まず関係者を土俵に乗せ、その上でルールを厳しくしていくのである。この場合、キャップはその経済への影響および遵守費用の不確実性を考えると実現可能性が低いと言わざるを得ない。先進国等については業種ごとのエネルギー効率をある幅に収斂させ、途上国については一人当たり排出量も加味した改善指数を設け、それに向けてまず努力をするというのが現実的であろう。もちろんその間に技術開発と途上国への移転・普及、温暖化に関する知見の進歩に全力を挙げることは言うまでもない。
Economist誌の言うように、理想的だが崩壊の危機のある条約(weak strong agreement)よりも、ちょっと回り道でも多くの国が参加し遵守可能な条約(strong
weak agreement)の方が長い目で見て効果があるのである。