1985年の「プラザ合意」以前は、日本、アジアNICs、アメリカの三地域を主たるプレヤーとして、いわゆる「貿易のトライアングル構造」が形成された。つまり、日本は対米貿易で黒字(工業製品の輸出)、アジアNICsはアメリカに対して黒字(労働集約的製品の輸出)、日本に対して赤字(中間財・資本財の輸入)となり、アメリカが主たる完成品の市場(アブソーバー。両地域に対して赤字)となることで、日本とアジアNICsの工業的発展を支えてきた。このメカニズムでは一見、アメリカが「一人負け」のように見えるが、廉価で高品質である日本とアジアNICsからの工業製品を大量に輸入することで、アメリカは高い消費水準を享受してきた。その結果、こうした「貿易のトライアングル構造」を、1980年代には太平洋を媒介とする「成長のトライアングル構造」と呼んだ。 ところが、1990年代から東アジアの輸出先にしめるアメリカ市場の比率や、東アジア向けの直接投資に占めるアメリカの比率が低下していき、貿易、直接投資、ひとの移動のいずれを見ても、日本、北東アジア、東南アジアの三地域間(拡大東アジア)の相互依存体制が進展してきた。この相互依存体制を牽引したのは、90年代前半のASEAN諸国における経済ブームと、現在まで続く中国の著しい経済的台頭の二つ、とりわけ後者であったことは、誰しもが認めるところであろう。その結果、「アジア化するアジア」が経済面で進行しており、日本、北東アジア(とくに中国)、ASEANの三つを主たるプレヤーとする「第二世代の成長のトライアングル構造」とも呼ぶべき現象が現出しつつある。 |
貿易の東アジア域内相互依存の深化のなかで、とりわけ注目すべき現象は、日本と後発東アジア諸国の間の貿易関係が、従来型の垂直的分業関係(一次産品・農産物と工業製品の貿易)から新しい水平的分業関係(同一産業内での貿易)に移行しただけではなく、同一産業内(電子部品など)において、付加価値や技術集約度の差にもとづく「垂直的産業内分業」が進展しつつあるという、注目すべき事実である(吉富勝『アジア経済の真実』2003年、第4章ほか)。国レベルでの産業ごとの比較優位の差ではなく、日本、韓国、台湾などの「個別企業」の積極的な海外投資と経済立地戦略にもとづく差が、貿易の内容に大きな影響を与えている点が、最近の新しい動向であった。 例えば、日本と中国、日本とタイの間の貿易は90年代半ば以降、急速に増大した(構成品も変化)が、同時にタイと中国の間の貿易も急速な増加をみた。その中身を検討すると、貿易の拡大を牽引しているのは、機械類、電子部品、自動車部品などであり、その背景を探ると、日本企業の対中国進出の急増が、中国に進出した日系企業、タイに生産拠点を構える日系企業、そして日本の本社の間で、電子部品を中心に「企業内貿易」(intra-firm trade)を急増させていることが判明する。つまり、「アジア化するアジア」は、単に東アジア諸国の工業化の進展だけではなく、「プラザ合意」以降、東アジア地域に急速に事業を展開していった日本企業の地域戦略を抜きにしては到底、理解することができないのである。こうした動向は、パソコン産業における台湾企業と中国、ASEAN、日本の間の貿易・投資の相互依存の進展にも確認することができる。経済産業省が、長期不況に悩む日本経済と通貨危機からの経済回復を目指す東アジア経済を不可分のものとして捉え、日本企業の国内における低収益構造と雇用創出の限界を地域大で克服することを念頭に「東アジア・ビジネス圏構想」を提唱したのも、以上の動向が関係している。 |
上記の東アジア域内の経済的相互依存関係の深化と、1997年のアジア通貨・金融危機以後の日本政府の東アジアに対する本格的な関与(実施ベースで670億ドルの支出)を契機に、日本のアジア経済外交の方針は、第一世代の成長のトライアングル構造を前提とする「アジア太平洋協力」から、第二世代の成長のトライアングル構造を前提とする「東アジア地域協力」へとシフトとしつつある。 もちろん、東アジアにとっての市場(アブソーバー)としてのアメリカの重要性、あるいは投資国、R&Dの発信基地としてのアメリカの重要性を軽視することは到底できない。IT革命の主導権を握るアメリカの存在を考えれば、この点は自明であろう。とはいえ、東アジアの地域レベルでの協力関係の構築が、日本経済にとっても、日本企業にとっても、きわめて重要になってきたことはもはや否定できない。日本政府が2000年以降、ASEAN加盟国や東アジア諸国を対象に積極的に推進している、多国間レベルでの「自由貿易協定」(FTA)や二国間レベルでの「経済連携協定」(EPA)の努力は、従来型の「アジア太平洋協力」を超えるための新たな枠組みであり、世界レベルで進行する「地域統合」に対する日本政府の、新たな地域(アジア)レベルでの積極的な関与と理解すべきであろう。 |
ところが、従来の議論は、日本・北東アジア(とりわけ中国)・ASEAN地域の三つの地域の間の経済的相互依存関係の深化を認めつつも、三者の間の協力関係については、必ずしも十分に議論してこなかったように思われる。「中国脅威論」は、その半面として日本国内における「産業空洞化論」を懸念し、日本における「知識集約型産業」の育成を説く議論は、暗黙のうちに東アジア域内に「序列的な国際分業秩序」の形成を想定していた。また、日本と中国、日本と台湾、日本とASEAN加盟国という発想は強いが、「日本と中国・日本とタイ・タイと中国」を一体として捉えるような視点、東アジア地域内の「ダイナッミクな経済関係」を十分認識した議論は意外と少ない。あるいは、日本・中国・ASEANの間の経済実績、貿易、投資、ひとの動きを並列的に叙述する議論は多いが、中国とASEAN、台湾とASEANの経済交流の拡大が日本経済にどのようなインパクトを持つのかについて議論することは、じつはあまりないのが実情である。 |
ふたつの事例を紹介しておこう。 第一は、2005年4月から、中国で激化した反日運動の事例である。5月に、日本政府の外務省の仕事で「対タイ経済協力計画案」を作成する責任者であったわたしは、タイの財務省、外務省、国家経済社会開発庁、対外援助機関などの省庁を回り、局長・次長クラスと意見を交換する機会をえた。多くの場で、タイ側の政策責任者が、「中国の反日運動=日本企業の中国一極集中的投資の見直し=投資リスクの地域分散=タイへの直接投資の増加」という、きわめて楽観的なシナリオで事態を理解していることに、ショックを受けた。わたしは、これらの会合の場で、一貫して日本の対中投資の低下、投資の地域的分散化は、一時的にタイへの直接投資の増加をもたらすかもしれないが、それ以上に、将来的にはタイと中国、タイと日本の間の貿易の「縮小」をもたらすことを、データをもとに説明した。地域大ではなく、二国間中心にものごとをみる「誤謬」の一例といえるかもしれない。 第二は、タイの天然ゴム産業のノウハウの近隣諸国への移転が、「第二世代の成長のトライアングル構造」を強化する可能性をもっているという事例である。タイの天然ゴム産業の発展は、アメリカ自動車産業と結びついたインドネシアのゴム産業、ヨーロッパの自動車産業と結びついたマレーシアのゴム産業と比べて、後発グループであった。ところが、「ブロック・ラバー」ではなく「シートラバー」(RSS)を中心に、日本ブリヂストン社=ラジアル・タイヤの発展と共に拡大したタイのゴム産業は、「植え替え政策」やシートラバーの生産管理システムの改良を着実に蓄積し、いまや世界最大のゴム輸出国に成長すると同時に、日本自動車産業が要求する高いレベルの技術ノウハウを内部化した産業になっている。 そこで、このタイにおける天然ゴム産業の発展パターン、そしてその技術集積を、近隣のラオス、カンボジアに輸出・移転できないのかという課題が、期せずしてタイ政府と日本企業側で生じた。タイに拠点をおく日本の総合商社は、南タイで蓄積したタイヤ原料としての天然ゴムに関するノウハウを、ラオス、カンボジアに移転することを企画している。注目すべき点は、ラオス・カンボジアにおいて生産されるタイヤ原料が、もはや従来の「成長のトライアングル構造論」が想定してきた欧米市場ではなく、ドイツを抜いてまもなく世界で第3位の自動車生産大国になる中国を、もっぱら市場として想定している点である。 「新興途上国=日本とタイの技術の合体=伸びる中国の自動車産業・タイヤ市場」という、「アジア化するアジア」の構図が補強されるのである。 こうした動きをどのように評価し、かつ支援するのかが、現在の「東アジア経済研究」では問われているわけである。その点を「アジア域内の産業協力」として改めて取り上げてみたいというのが、本研究会の趣旨である。 |
研究委員会構成 (敬称略,五十音順) |
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氏 名 | 所属・役職 | |||
委員長 | 末廣 昭 | 東京大学 社会科学研究所 教授 | ||
委 員 | 小島 眞 | 拓殖大学 国際開発学部 教授 | ||
斉藤 栄司 | 大阪経済大学 経済学部長 教授 | |||
篠田 邦彦 | 経済産業省 通商政策局 経済連携課 経済連携交渉官 |
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高山 勇一 | ㈱現代文化研究所 常務取締役 中国研究室長 | |||
※佐次清 隆之 | ㈱現代文化研究所 情報企画室室長代理※ | |||
竹内 順子 | ㈱日本総合研究所 研究事業本部 海外事業・戦略クラスター |
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松平 俊哉 | 東レ㈱経営企画室 主任部員 | |||
※大川 三千男 | 東レ㈱ 顧問※ | |||
丸川 知雄 | 東京大学 社会科学研究所 助教授 | |||
三上 喜貴 | 長岡技術科学大学 教授 経営情報系 | |||
峰 毅 | 東京大学大学院 経済研究科 博士課程 | |||
山近 英彦 | 経済産業省 経済協力局 技術協力課長 |