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ニュースレター
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1999年3月号 |
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COMMITTEE [JAPAN IN ASIA ] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「アジアの中の日本」と中華民国台湾「アジアの中の日本」研究委員会(委員長 白石 隆京都大学教授)は本年3月に第一次研究報告書を刊行し、引き続いて第二次の研究委員会を発足させる予定である。ここでは委員会では取り上げられなかったが「中華民国台湾」について述べてみたい。 1.アジアの優等生、台湾 最近のアジア経済について述べるときの枕詞は「1997年7月、タイで始まった通 貨危機は瞬く間に近隣諸国に伝播し、」となっている。確かに多くのアジア諸国では通 貨危機が金融危機を生み、1998年に入ると消費、投資等国内需要の落ち込み、輸出の低迷など、実体経済も大きな影響を受け、大幅なマイナス成長を記録した。その中で中国と並んで際立って安定した経済成長をしているのが台湾である。(表1) 表1 アジア諸国の成長率(実質GDP)と見通し(前年比%)
1998-2000は三和総研98/12/4調査による。 先のロンドンエコノミストにも「フレキシブルタイガー、台湾」と紹介されているが、96年5,7%、97年6,8%、98年は16年ぶりの低水準になったとはいえ4,8%、99年も4.8%の経済成長を見込んでいる。国民一人当たりGNPは1万3,154米ドル(97年)と日本を除くアジア諸国の中では際立って高く、また外貨準備高は98年末で903億米ドルと日本、中国についで3番目に高い水準にある。アジアの経済大国といって差し支えないだろう。 また98年の通商白書によれば、我が国の貿易に占める台湾のシェアは輸出が6,5%(金額で276億D^Y)で第2位 、輸入が3,7%(金額で125億D^Y)で第6位となっており、正式な国交はないとはいえ日本にとって重要な交易相手国であることは論を待たない。 台湾は1945年に降伏した日本軍に代わって、蒋介石総統に率いられた国民党によって統治されてきた。東京経済大学の劉進慶教授の研究によれば、国民党の「党官僚」と民間資本の担い手である資本家が癒着し、台湾経済を支配する「官商資本」が1945年から1960年に形成されたという。簡単に言うと銀行部門を国家が独占してしまったため、普通 の人が事業を起こすとき銀行はお金を貸してくれなかった。そのため、企業家精神にあふれた人たちは自己資本を頼りに中小企業を形成していった。韓国のように国が率先してお金を貸し出して30もの財閥作りに精出した国とは違う。各国と比較し台湾企業の自己資本比率は高水準にある。(図1) 国や銀行からの規制や庇護がないぶんだけ、自己責任ルール、市場経済ルールが貫徹しているといえよう。また日本では会社が破産すると社長は個人資産、生命保険に至るまでみぐるみ剥がれてしまうので、一度躓くと再起が難しいのであるが、台湾では会社が倒産してもオーナーの資産まで取り上げられることはなく、何度でもトライのチャンスはある。台湾は、中小企業の集合といわれており、総輸出額に占める中小企業の割合は1980年代において7割近くに達しており、同じ時期の韓国の総輸出額に占める中小企業の割合、20−30%台と比べて相当高い水準にあった(注1)。 さてこの堅実な経済は何によって支えられているかというとパソコン、半導体をはじめとするハイテク輸出産業である。輸出先はニューエコノミーの好景気に沸く米国である。表2は97年における主要相手国・地域別 輸出入総額であるが、米国が最大の貿易相手国であることがわかる。また日本、欧州など先進諸国との貿易比率が高く、今回のアジア経済危機の影響を受けたアジア諸国との金額は相対的に低い。つまりアジアの経済危機の影響をそれほど受けないで済む構造だったといえる。表3は89年から97年にかけて台湾の輸出金額が約2倍に伸長していく中で主要輸出品目とその構成比、伸び率を見たものであるが電子・電器機械が金額、伸び率において際立っていることがわかる。 表2 主要相手国・地域別輸出入総額(97年)(単位:100万ドル、%)
(注)*印の対中国間接貿易統計は台湾経済部が推計したもの。 表3 台湾の主要輸出品目推移(単位:100万ドル)
ジェトロ白書「世界と日本の貿易」1991及び1998より筆者作成 もちろん日本やアジアの景気低迷がボディブローのように効いて、多少の景気の減速感があるにしろ、99年4,8%の経済成長率見込みは「アジアの優等生」の名にふさわしい。 台湾がハイテク製品の輸出に成功した理由の一つとして、民主化により、国民党独裁時代に海外に逃れていた優秀な人材が帰台したきたからといわれている。現在、年間2万人の台湾人が海外留学し、2万5千人が留学を終えて帰国してくる。大学の進学率は日本より高く56%といわれている。台湾は1945年において小学校教育の普及率92%を達成しており、教育面
のインフラは他のアジア諸国に比べて昔から格段に進んでいたといえよう。 2.「新台湾人主義」政治的成熟 1999年2月現在、中国との国交樹立国は161カ国、台湾と外交関係を持つ国は2月に台湾と国交を樹立したマケドニアを加えて28カ国となっている。中国は「台湾の独立を認めない」、「2つの中国、一台一中を認めない」、「台湾の国連参加を認めない」という「三不」政策ををとっているので、台湾と外交関係を持つ国とは断交している。日本と台湾の外交関係は72年9月の中華人民共和国と日本の国交正常化以来消滅している。 日本貿易振興会(JETRO)が発行している「海外市場白書、世界と日本の貿易編」という本がある。国別 に我が国との貿易関係を述べているのであるが、80年代の白書には「台湾」の名前は全く出てこない。80年代後半には日台間の貿易総額は200億ドルを超えていた。わずか5億ドル前後の貿易額しかない北朝鮮やベトナムが国名を挙げられ、「生鮮まつたけの輸入が」どうしたとか書かれているのに比べればはなはだしくバランスを欠いているといわれても仕方がない。90年の白書から突然「台湾」が登場するが、モンゴルや北朝鮮などと一緒にアジアグループの最後の方に申し訳のように書かれている。それがしばらく続いたが、最近の白書では順番が上がって中国の次、アジアグループの2番に台湾が出てくる。20年かけてやっとその経済力にふさわしい位 置に納まったということができる。 日本の新聞社は、産経新聞を除いて、「1つの中国」の原則のもとに台湾には支局を持てなかった。しかし昨年、産経新聞社が31年ぶりに北京に「中国総局」を設置し、常駐特派員を置くことになった。台湾には「台北支局」を引き続き存続させている。これを見て他の新聞社も台湾に支局を置くようになり、一般 紙にも正確な台湾の状況が掲載されるようになってきた。 98年台湾では、立法院総選挙と台北市長選挙が行われた。与党・国民党は定数225議席のうち123議席を得て、前回(95年)選挙の得票率をも上回り、最大野党・民進党の70議席を大きく上回った。また台北市長選挙でも有利が伝えられる現職で民進党リーダーの陳水扁氏を、国民党の馬英九氏が破った。 国民党が勝利したからといって中国との統一が早まるという見方は間違っている。国民党は戦後、冷戦構造の中で中国統一路線を標榜し、台湾人の自治・独立運動を弾圧し、白色テロといった恐怖政治を行ったこともある。しかし80年代後半以降、李登輝総統の主導のもと、急速な民主化、台湾化が進行しており、国民党自体が中国との統一よりも台湾の現状維持を優先する「台湾国民党」に生まれかわっている。このような国民党の台湾化に反発する外省人グループは、93年に脱党して新政党を作っている。最大野党の民新党の立場も同様で、党是として「台湾独立」をうたってはいるが、あまりにも「独立」に向けて急旋回すれば、軍事膨張主義の台頭著しい中国の武力干渉を招きかねないという判断があり、今は現状維持政策を打ち出している。この独立主張のトーンダウンに怒ったグループは脱党して「建国党」や「新国家連戦」を結成している。 このように、それぞれ、統一、独立の急進グループが離党したため、与党・国民党と野党・民新党の政策や政見が似通 ってきて、候補者の演説だけ聞いているのでは何処の政党かわからないといった現象が起こっているという。ただ、先の立法院選挙では台湾語で演説する候補者が多いのが目についたというが、それは、外省人や本省人であるといった区別 を超えた「新台湾人主義」の表われではないだろうか。昨年台湾では歴史の見直しが行われ、「台湾人」としてのアイデンティティをより明確に打ち出した中学用歴史教科書「認識台湾」が使われ始めた。これは、それまでの中国史ではなくはっきりとした「台湾史」である。 中国5000年の歴史において、自由と人権が保障された民主主義体制を実現したのは台湾がはじめてである。また流血を見ない民主主義体制への移行と堅実な経済運営の実績は中華民国台湾に自信と誇りを与え、それが4年前、李総統の主唱した「新台湾人主義」を実のあるものにしている。 3.世界最高の知日家、李登輝総統 98年11月に中国の江沢民国家主席が来日し、首脳会談だけならまだしも、宮中晩餐会の席上においても日本の「過去」と「歴史的認識」を責めつづけた(ある報道によると11回も日本の過去を非難したという)。そして日本の提示した対中3900億円の借款に対して「評価する」の一言を残して去った。つまり感謝の言葉は無かったということだ。論語に「礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ」とある。このような非礼に対してあの朝日新聞までが11月28日朝刊で政治部本田記者の署名入り記事の中で「92年秋の天皇訪中で日中の戦後には一区切りついている筈だった」と言う見方を紹介したうえで「江主席の対日姿勢には中国側の事情もあるようだ」となんとも歯切れが悪い弁護を試みている。 李登輝総統は深田祐介氏との対談でその「歴史認識」についてこう答えている。「確かに50年も前の話をいつまでも言い募る必要など、どこにもありません。それに、私は日本よりもむしろ江沢民の「歴史認識」こそ問題があると思っています。なぜなら、日本は戦後50年間、平和憲法を遵守し、民主国家を建設してきました。それだけでなく、その平和と民主主義をアジア全体へと広げる努力もしてきた。そういう面 を無視して、昔のことを言い続けるのは決して正しい「歴史認識」ではない。 結局、江沢民は、共産主義者とは言いきれないと思います。なぜなら、彼が本当の共産主義者ならば、共産主義の骨格を成す唯物史観、弁証法の信奉者でなくてはならないはずです。 歴史が弁証法的に発展すると考えるならば「正」「反」「合」に従い、対立や矛盾を生じたときはそれを「止揚」することで、より高次のものへと発展させていかなくてはならない。「過去」の対立にいつまでもこだわり、よりよい将来について語らないというのでは、弁証法的に言っても、歴史がわかっていないわけです。 毛沢東なら、決してこんなことは言わなかったでしょうね。(笑)」(注2) さすが西田哲学に造詣の深い「哲人政治家」李総統の言葉ではある。 文芸春秋2月号に作家の阿川弘之氏が「松樹千年の翠」と題する巻頭エッセイを書いている。氏は、敗戦後まもなく昭和天皇のお詠みになった「降り積もる雪にも耐えて色かえぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ」という和歌に感激し、息子の号を「峯松」とつけた親日家の陳維青氏を紹介したうえで、こう続けている。 「昭和天皇崩御の際、世界の元首級の中で最も深甚な、涙せんばかりの弔意を表明したのは台湾の李登輝総統であった。日本の統治下を離れて半世紀以上たって、台湾には現総統始め陳先生のやうなビジネスマンや学校の先生や退役軍人、家庭の主婦までさういふ親日感情を持ち続けてゐる人がこんにち相当な数に上るらしい。宮中晩餐会に詰襟の人民服で出席した江沢民主席の「歴史認識」とはちがふ歴史認識の持ち主たちである。「台湾は中華人民共和国の一部。『二つの中国』の見方は排除する。」日本政府が政治的配慮からあちらのオウム返しの建前論をとなえるのは致し方ないけれど、私ども一般 国民までが北京に遠慮してさう思わねばならぬ理由は全くない。 とかく世界の嫌われ者になりがちな日本に昔ながらの美点を認めて温顔を向けてくれる台湾に日本は感謝の念を以って報いるべきだらうと私などは考える。それがちっとも表面 に出てこないのを見てあの人たち「日本人は昭和天皇の御製の『色かえぬ』を忘れ、『雄々しき』ところを失ってしまったんだねえ。」さう感じてゐはしまいか。」 76歳、今でも中央公論と文芸春秋を購読しているという李登輝総統にもこのエールが届いていることを信じるものである。 (文責 中西 英樹) (注1) 「韓国・台湾の発展メカニズム」アジア経済研究所服部民雄、佐藤幸人編1996 |
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